嵐の夜
夕刻になって、空がおかしくなった。
ウガルの港から見上げる空は、いつもなら夕焼けの橙に染まる。地中海の水面が光を弾いて、商人たちが一日の終わりを惜しむように最後の荷を運ぶ——そんな見慣れた光景が、今日はなかった。
雲が渦を巻いていた。
黒というより紫に近い色の雲が、空の高いところでゆっくりと回転している。まるで巨大な臼が天を挽いているかのように。海は鉛色に沈み、波頭だけが白く不穏に立っている。風はない。それが不気味だった。嵐の前には必ず風が出る。港育ちの商人なら誰でも知っている常識だ。だが今日は、風が死んでいる。空気だけが重い。肌がぴりぴりする——嵐の前の、あの感覚だ。だが、こんな空気の重さは商人人生で一度も経験したことがなかった。
潮の匂いが濃い。いつもの潮臭さではない。腐った海藻と、錆びた鉄と、何か——名前のつけられない甘ったるい匂いが混ざっている。
「アシュタル、窓を閉めて」
母の声に促されて、アシュタルは家中の窓の戸を閉めて回った。弟のヤリムは部屋の隅で膝を抱えている。声がかすれ始めてから、弟は口数が減った。味覚を失い、眠れなくなり、今度は声。順番に何かが剥がれていく。枯れた木から葉が落ちるように、一枚ずつ。
窓の戸を閉めるたびに、外の空気が遮断される。だが壁越しにも圧を感じた。空が、押してくる。
通りでは住民たちが不安げに空を見上げていた。魚売りの老婆が「こんな雲は見たことがない」と呟き、鍛冶屋の親方が弟子を急かして工房の戸板を打ちつけている。水汲みの女たちが足早に家路を急ぎ、子供たちは母親に引きずられるようにして路地に消えていく。
嵐が来る。
だがこれは、ただの嵐ではない。
夜になって、嵐が牙を剥いた。
風が唸りを上げて街を叩き、屋根瓦が吹き飛ばされる音が断続的に響く。雨が降り始めた——だがその雨は、冷たくなかった。
温かい。
体温と同じくらいの温度の雨が、窓の隙間から吹き込んでくる。アシュタルは指先で雨粒に触れ、眉をひそめた。生ぬるい。まるで何かの血のような温度だ。指先で擦ってみたが、色はない。透明な雨だ。だが温度だけが、決定的におかしい。
稲光が空を裂いた。一瞬、部屋の中が白く染まる。母が小さく悲鳴を上げ、ヤリムが膝を強く抱え込む。だが雷鳴はすぐには来ない。光ってから、五つ数え、六つ数え——ようやく腹の底を揺さぶるような重低音が届いた。遠い。だが光は近い。距離の感覚がおかしい。光と音が剥離している。天と地の間で、何かが狂っている。
そして、海が赤かった。
窓から覗き見た港の海面が、稲光に照らされるたびに赤黒く光っている。血の海——いや、潮と錆びた鉄を混ぜたような匂いが風に乗って鼻を突く。空気が焦げている。嵐の匂いではない。何かが《《燃えている》》匂いだ。雨は温かいのに、空気は焦げている。矛盾だらけの嵐が、街を叩いている。
「天罰だ!」
隣家の男の叫び声が、嵐の合間に聞こえた。
「バアルの怒りだ! バアル様がお怒りなんだ!」
他の家からも声が上がる。祈りの言葉、嘆きの声、子供の泣き声。嵐が街ごと揺さぶっている。
アシュタルは唇を噛んだ。バアル——嵐の神。その名を口にする者がいるということは、この嵐が普通でないと街の者たちも感じているのだ。神殿は沈黙している。バアルの応答は途絶えたままだ。なのに嵐だけがここにある。主のいない力が、暴れ回っている。
港の被害状況を確認しなければならない。商品の在庫がある。桟橋に積んだ布地の荷も心配だ。——と、自分に言い訳をしながら、アシュタルは階段を駆け上がり、屋上に出た。
本当のところは、分かっていた。この嵐の正体を確かめたかったのだ。商人の好奇心が、恐怖を一歩だけ上回っていた。
嵐が全身を打った。
温かい雨が顔を叩き、風が外套を引きちぎろうとする。髪が顔に張りつき、視界が半分塞がれる。手で前髪を払いのけ、目を細めて港を見下ろした。桟橋が波に洗われ、繋がれた小舟が激しく揺れている。一艘が横転し、船底を晒して波間に漂っていた。港の倉庫の屋根が半分剥がれ、中の荷が風に巻き上げられている。
対岸の丘が稲光に照らされるたびに白く浮かび上がる。
そのとき——丘の上に、人影を見た。
嵐の中に、微動だにせず立っている。長い髪が風になびいている。街を見下ろすように——いや、値踏みするように立っている。嵐に打たれているはずなのに、その姿勢には揺らぎがない。まるで嵐の方がその人影に合わせているかのように。
稲光が走った。一瞬の白い光の中で、横顔が見えた。
女だった。
遠すぎて細部は分からない。だが分かることが一つだけあった。あれは人間の立ち方ではない。嵐の中心に、嵐を纏って立っている。風に逆らっているのではなく、風がその人影を《《避けている》》のだ。嵐が、あの女を恐れている。
背筋が粟立った。全身の毛が逆立ち、温かい雨の中で寒気が走る。商人の勘が叫んでいる。あれに近づくな、と。あれは取引の相手ではない。あれは——
次の稲光が来る前に、人影は闇に溶けた。
アシュタルは屋上に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
嵐は夜明けとともに去った。
あれほど荒れ狂った風と雨が、まるで手のひらを返したように止んだ。空は嘘のように澄み、朝日が瓦礫の街を照らしている。
被害は甚大だった。家屋の屋根が飛び、港の桟橋が三本折れ、倉庫の壁が崩れて商品が散乱している。通りには倒れた荷車や割れた壺が転がり、泥水が水路から溢れて路面を覆っている。アシュタルは夜明けとともに港に出て、ベン=シャハル商会の被害を確認して回った。布地の荷は半分が水浸しだ。損害額を暗算する。重い数字だ。
だが、死者はいなかった。
屋根の下敷きになった老人が、潰れた体のまま動いていた。骨が飛び出した腕を引きずり、もう片方の手で瓦礫をどかそうとしている。桟橋から海に落ちた子供が、溺れもせずに岸に這い上がってきた。海水を吐きながら、けろりとした顔で母親の元へ走っていく。壁の下敷きになった犬が、折れた足を引きずりながら歩いていた。
死ねないのだ。
壊れた街で、死ねない住民が瓦礫を片付けている。骨が折れた腕で石を運び、血が止まらない額を拭いもせずに屋根を直している。痛みに顔を歪めながら、それでも手を止めない。止められない。死ねないから、諦められない。その光景は救いではなかった。地獄だ。痛みはあるのに、終わらない。壊れても壊れても、動き続ける。
アシュタルは港の惨状を見回りながら、昨夜の人影を考えていた。あの嵐の中で微動だにしなかった女。風が避ける存在。嵐を纏う者。人間ではない何か。
そして——あの嵐は、あの女が連れてきたのか。それとも、あの女はあの嵐に引き寄せられて来たのか。
店に戻り、壁を点検していたときだった。
ふと、視線を感じた。
うなじの毛が逆立つような、鋭い視線。振り返る。誰もいない。通りには瓦礫を片付ける住民がいるだけで、こちらを見ている者はいない。猫が一匹、塀の上で丸くなっているだけだ。
だが壁に——手形のような跡があった。
石壁に、指がめり込んでいる。五本の指の跡が、硬い石灰岩を粘土のように押し潰している。指先が二、三寸ほど沈み込み、周囲の石がひび割れている。人間の力ではない。人間の力では絶対にできない痕跡が、自分の店の壁に刻まれている。
昨夜の嵐の間に、誰かがここに来た。
アシュタルの店に。わざわざ。
温かい雨の残り香が、まだ空気の底に漂っていた。焦げた匂いと、鉄の匂い。それがゆっくりと朝の潮風に溶けて消えていく。
アシュタルは手形に触れた。石が砕けた縁がざらつく。冷たい。だが——ほんの微かに、石の奥に熱が残っているような気がした。




