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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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夜の市場

夜の市場


 夜更けのウガルには、もう一つの顔がある。

 正規の市場が店仕舞いし、通りから人影が消えた頃——下町の路地裏に、灯りがともり始める。油灯の橙色が石壁を舐め、狭い路地に怪しげな影を落とす。干した薬草の束が軒先から垂れ下がり、その隙間から甘くも苦くもつかない匂いが漂ってきた。どこかで鳥籠の中の鷹が低く鳴いている。ひそひそ声が石畳を這い、暗号めいた合図と共に戸口が開いては閉まる。

 闇市場だ。

 アシュタルはフードを目深に被り、路地に足を踏み入れた。砂よけの外套が肩を覆い、腰の帳面が歩くたびに太腿に当たる。この場所は知っている。商人なら知らない方がおかしい。正規ルートで手に入らないものが、ここにはある。希少な鉱石、禁制の染料、他国の軍事情報、偽造の通行証——そして、呪術の知識。

 今日は禁制品を買いに来たのではない。情報を買いに来た。


 まず顔見知りの闇商人を探した。干し肉と密造酒を扱うラフムという男だ。路地の角に店を構えている。店といっても布を張っただけの屋台で、品物は足元の木箱に詰め込まれている。壁に寄りかかった大柄な男が、アシュタルの姿を認めて片眉を上げた。

「よお、ベン=シャハルの坊ちゃんか。珍しいな、こんな時間に」

「紹介が欲しい。呪いに——いや、神秘に詳しい者を探している」

 ラフムの目が細くなった。顎を撫でながらアシュタルを値踏みする。闇商人の目は表の商人と同じだ。相手の懐と本気度を測っている。

「紹介料は」

「銀貨二枚」

「五枚」

「三枚。それ以上は出ない。代わりに、来月の密造酒の仕入れで麦の卸値を融通する。表のルートで、だ。おたくにとっても悪くない話のはずだ」

 ラフムは舌打ちした。だが目が笑っている。銀貨を受け取り、路地の奥を顎で示した。

「二つ目の角を右。赤い布が目印の戸口を叩け。ナフルという男が出る。そいつに『鷹の羽根が欲しい』と言え」

「合言葉か」

「ルールだ。紹介なしに呪術師に近づいたら、翌朝には路地裏で冷たくなってる。覚えとけ」

 裏の世界にもルールがある。仲介を経て、暗号を通し、ようやく奥に辿り着ける。面倒な手順だが、それが秩序だった。信用で成り立つ世界は、表も裏も変わらない。

 赤い布の戸口を叩いた。中から覗いた痩せた男——ナフルに合言葉を告げる。ナフルは無言でアシュタルを頭の先から爪先まで値踏みし、銀貨をもう一枚要求した。払う。さらに奥の路地を通され、石段を下り、地下の一角に案内された。途中で二度、角を曲がった。道を覚えさせないためだろう。だがアシュタルは足の裏で石畳の傾斜を感じ取り、曲がった方角を帳面の端に印で記録していた。商人の習性だ。


 小さな部屋だった。

 石壁に囲まれた空間に、薬草の束と動物の骨が吊るされている。山羊の頭蓋骨、鷲の爪、名前の分からない魚の干物。隅に置かれた香炉から細い煙が立ち上り、部屋全体が甘く重い空気に沈んでいた。壁には赤い泥で描かれた文様がある。円と三角と、その間を繋ぐ線。何かの図式だが、アシュタルには読めなかった。

 奥に人がいた。

 老齢の男だった。深い皺が顔を覆い、目は白く濁っている。盲目か、それに近い。背中が曲がり、両手を膝の上に置いて座っている姿は、干からびた木のようだった。だが部屋に入った瞬間、老人の顔がこちらを向いた。見えていないはずの目が、まっすぐにアシュタルの胸元を——見ている。

「見せろ」

 低い声だった。命令ではなく、確認だった。既に分かっている。ただ確かめたいだけだ。

 アシュタルは上着の前を開いた。胸にうっすらと浮かんだ文様が、ランプの灯りに照らされる。銀色の線が、かすかに光を帯びていた。円環と、その内側に走る幾何学的な模様。

 老人が立ち上がった。思ったより背が高い。震える手を差し出し、文様の上をなぞった。指先は肌に触れていない。数寸の距離を保ったまま、空気をなぞるように動く。まるで熱を感じ取っているかのように。

 長い沈黙だった。部屋の中で香炉の煙だけが動いている。

 やがて老人が手を引いた。一歩、二歩と後ずさる。顔色が変わっていた。白濁した目の奥に、明らかな恐怖がある。口元が引きつり、喉が上下した。

「これは呪いではない」

 老人の声が、かすれた。

「奉納の印だ。神に捧げられた者の証だ」

「奉納?」

「お前は——お前の一族は、神に捧げられている。誰かがお前たちを神への供物くもつとして差し出した。この印はその証文だ。呪いとは根が違う。呪いは人間の悪意だ。だがこれは——神の領域の話だ」

 呪いではなく、奉納。言葉の意味が頭の中で組み替わるのに、数秒かかった。呪いなら解呪という手段がある。誰かの悪意ならば、その悪意の主を見つけて対処できる。だが奉納は——捧げものだ。供物だ。全く違う構造の問題だ。

「解除できるか」

 老人は首を横に振った。激しく。白い髪が揺れた。

「私の手に負えるものではない。これは神の領域の話だ。人間がどうこうできる印ではない。——帰れ。帰ってくれ」

 アシュタルが銀貨を差し出すと、老人は手を振って拒んだ。「金はいらん。関わりたくない。頼むから帰ってくれ」。その手が震えていた。呪術を生業なりわいにし、闇の知識で金を稼いできた者が、金を受け取ることすら拒んで怯えている。

 それが、この印の重さだった。


 闇市場を後にして、夜の通りを歩いた。

 足が勝手に動いている。どこに向かっているのか、自分でも分からなかった。頭の中で、老人の言葉が何度も反響していた。

 呪いではなく、奉納。

 意味がまるで違う。呪いならば、誰かの悪意だ。その悪意を突き止め、解呪すればいい。取引の話にできる。だが奉納ならば——誰かが意図的に、自分たちの一族を神に捧げたことになる。知らないうちに。同意もなく。

 捧げられた。

 その受動性が、背筋を冷たくさせた。自分たちは誰かの供物にされていたのだ。生贄ではない——生きたまま、神の所有物として差し出されていた。だから死なない。神の持ち物は壊れないからだ。だが人間として生きることもできない。感覚を失い、眠りを失い、温もりを失い、やがて——。

 なぜ?

 誰が?

 どの神に?

 帳面を取り出し、歩きながら書き込んだ。「奉納の印」。呪術師の証言。解除不能——人間の手では。神の領域。

 古い家系だけに出る理由も、これで筋が通る。三代以上ウガルに住む家——それは代々、バアル神殿に奉納を続けてきた家だ。信仰の深い家。神と長く繋がってきた一族。その繋がりそのものが、印の条件になっているのか。祖父にも出た。祖父は消した。だが呪術師には消せない。ならば祖父は、人間ではない何かの力を借りたのか。

 頭の中で、問いが問いを呼んでいた。


 帳面を閉じた時、背後に気配を感じた。

 振り返る。誰もいない。路地は暗く、静まり返っている。石壁の隙間から猫が顔を出したが、すぐに引っ込んだ。

 だが空気が重い。嵐の前のような圧力が、肌にまとわりついている。風が止み、夜の虫の声も消えた。世界が息を止めたように静まった。

 見上げた夜空に、一瞬、稲光が走った。

 雲はない。星が瞬く澄んだ夜空を、白い光が裂くように横切った。音はない。遠雷の轟きも、空気の震えもない。光だけが、無音で空を走り、消えた。

 風が吹いた。

 温かい風だった。砂漠の昼間の乾いた熱気でもなく、海から吹く塩気を含んだ風でもない。人の息のように近く、人の体温のように温かい。それが顔を撫で、髪を揺らし、通り過ぎた。

 アシュタルは通りの真ん中に立ったまま、夜空を見上げ続けた。胸の文様が——かすかに、熱を持った気がした。冷たくも痛くもない。ただ、そこに何かがあると主張するように、温かい。

 雲のない空に走った稲光。嵐の神の——印だろうか。

 風が止んだ。虫が鳴き始めた。夜が、元に戻った。

 アシュタルは外套の襟を掻き合わせ、家路を急いだ。帳面を握る手が、僅かに汗ばんでいた。


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