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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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潮と銅貨

 銅貨六十枚。


 ティルスの香辛料商人がそう言い放った瞬間、競り場のざわめきが一段低くなった。周囲の商人たちが値踏みするような目をこちらに向ける。潮風に乗って魚の腸の匂いが流れてきた。桟橋に繋がれた船の帆布がばたばたと鳴り、荷運び人夫の怒号が遠くで響いている。


「銅貨六十枚」


 アシュタルは相手の言葉をゆっくり繰り返した。声に怒りは乗せない。驚きも乗せない。ただ、値札を読み上げるように。


 ティルスの男は腕を組んだまま微動だにしない。日焼けした顔に深い皺が刻まれ、片方の眉の上に古い刀傷がある。こういう手合いは威圧で値を通そうとする。声を張り、体を大きく見せ、相手が怯んだ隙に判を押させる。港では珍しくもない手口だ。


「ティルスからの航路、最近どうです?」


 アシュタルは帳簿から目を上げずに言った。


「……何が言いたい」


「東の海路が荒れてる。先月だけで三隻沈んだと聞いてます。保険料は跳ね上がり、船主は積荷を減らしてる。つまり、あんたが次にこの量の肉桂にっけいを運んでこられる保証はない」


 男の目が細くなった。図星だ。


「だが逆に言えば」アシュタルは指を一本立てた。「次の航海で船ごと沈めば、六十枚どころか積荷も船も全部海の底だ。今ここで四十枚で確実に捌いて、手元の金で船底修理に回したほうが利口じゃないですか。次の便が出せなきゃ、商売そのものが終わる」


 沈黙が落ちた。潮騒と、遠くの怒号と、銅貨を数える音だけが競り場を満たした。


 ティルスの男が舌打ちした。


「……五十枚だ」


「四十二枚。差額は俺が船底職人を紹介する手数料ってことで」


 男が低く唸り、やがて分厚い手を差し出した。アシュタルはその手を握り返す。乾いた掌に、潮と油脂の匂いが染みついていた。


「ベン=シャハルのせがれか。親父に似ず口が回る」


「よく言われます」


 取引が成立した瞬間の高揚は、何度味わっても悪くない。腹の底がじんわりと温かくなる感覚。銅貨の重みではなく、言葉が通じたという手応え。それが商人という生き物の報酬だとアシュタルは思っている。


 競り場の裏手に回ると、同僚のハダドが壁にもたれて待っていた。日除けのひさしの下で干し無花果いちじくを齧っている。


「よう。ティルスの熊、いくらで落とした」


「四十二」


「嘘だろ。六十って吹っかけてた強面こわもてを四十二まで落としたのか」


「航路の話をしたら勝手に折れた。情報は銅貨より重い、ってうちの親父の受け売りだけどな」


 ハダドが感心したように口笛を吹いた。二人で港沿いの道を歩く。昼下がりの陽射しが石畳を白く焼き、サンダルの底が熱い。岸壁に積まれた麻袋の列、素焼きの壺に詰められたオリーブ油、銅の延べ棒を検品する役人。いつもの港の景色だ。


「そういえば」ハダドが干し無花果の種を吐き出しながら言った。「バアル神殿の大祭、来月だろ。今年はやけに静かじゃないか。飾り付けも始まってないし」


「神殿のことは神官に任せとけよ。俺たちの仕事は銅貨を数えることだ」


 アシュタルは笑って受け流した。神殿の祭りの準備が遅れようが、自分の帳簿には関係ない。商人が気にすべきは相場と在庫と航路であって、神々の機嫌ではない。


 ——そう、思っていた。


 桟橋の先端で、荷降ろしをしている水夫の背中が目に入ったのは、その帰り道だった。


 アシュタルの足が止まった。


 あの男は知っている。ガルムという名の水夫で、先週の嵐で船ごと沈んだと聞いていた。遺体は上がらず、妻が泣き崩れていたのを港で見かけたばかりだ。


 だが、ガルムは桟橋にいた。麻袋を肩に担ぎ、別の水夫と言葉を交わしながら、いつもと同じように荷を運んでいる。


「ガルム」


 声をかけると、男は振り返った。


「おう、アシュタルか」


 普通の返事だった。名前も覚えている。声も、体つきも、以前と同じだ。だが——目が違った。黒い瞳に光がない。曇り硝子ガラスの向こうを覗いているような、焦点の合わない視線。


「元気そうじゃないか。先週の嵐、大変だったろ」


「ああ。まあな」


 ガルムは曖昧に頷いた。荷を降ろし、額の汗を拭う仕草をする。だが額は乾いていた。この炎天下で。


「飯が美味くねえんだ、最近」


 ガルムが唐突に言った。視線は海の方を向いている。


「女房が魚の煮込みを作ってくれたんだがよ。何も味がしねえ。塩も香草ハーブも。口に入れてる感じはあるんだが、味だけがねえんだ」


 アシュタルは喉の奥に冷たいものがせり上がるのを感じた。笑って誤魔化す。


「そりゃ港飯がまずいだけだろ。たまには市場の屋台で食ってみろよ」


「そうかもな」


 ガルムはまた海を見た。アシュタルは軽く手を上げて別れ、足早にその場を離れた。


 背中に貼りつく汗が冷たかった。先週死んだ男が立っている。歩いている。荷を運んでいる。だが飯の味がしないと言う。


 商人の頭が勝手に回り始めた。入港数が減っている理由。外国の船乗りがウガルを避け始めている噂。原因はこれか。死んだ人間が歩いている港に、誰が好んで船を入れる。


 振り返った。


 桟橋の先端で、ガルムが荷物を持ったまま海を見つめていた。夕陽が水平線を赤く染め、その光の中に立つ男の輪郭が妙に薄い。影が落ちていない——いや、薄いのだ。夕陽に照らされているのに、影がほとんどない。


 合理的な説明がつかなかった。


 アシュタルは唇を引き結び、歩調を速めた。


 帰宅すると、弟のヤリムが玄関先で待っていた。十四歳の少年は兄の姿を見つけると破顔した。


「兄ちゃん遅い! 母ちゃんの魚、冷めちゃうよ」


「悪い悪い。商談が長引いた」


 食卓には母が焼いた魚と、粗挽きの麦パンと、オリーブの実が並んでいた。魚の皮が香ばしく焼けた匂いが鼻をくすぐる。アシュタルは椅子に座り、パンをちぎって口に運んだ。麦の甘みが舌に広がる。


 いつもの夕食。いつもの家族の時間。


 ヤリムが魚をつつきながら、ふと言った。


「なあ兄ちゃん、今日の魚、味した?」


 アシュタルの手が止まった。


「俺なんか最近、何食っても味がしないんだけど」


 弟はけろっとした顔で笑っている。深刻さのかけらもない、いつもの明るい笑顔。だがその言葉は、桟橋でガルムが漏らした愁訴と寸分違わなかった。


 飯が美味くねえんだ、最近。


 アシュタルの笑顔が凍りついた。口の中の麦パンが、急に味を失った気がした。


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