8.市場の騒ぎと、初めての叱責
視察の合間に許された、ほんの短い自由時間。
イネスは久しぶりに市井へ出て、自然と気持ちがほどけていくのを感じていた。
市場は人で溢れていた。香辛料の匂い。焼き菓子の甘い香り。肉が焼ける香ばしいにおい。
どれも食欲をそそる。王城の中では上品な香りに囲まれている分、こうした庶民的な匂いや喧騒が、どこか懐かしく感じられた。
魚は安いよ、野菜はいらないかと飛び交う呼び込みの声。子どもたちの笑い声。
「すごい……」
ルイ王子が、目を輝かせて辺りを見回す。
「落ち着いて歩いてくださいね」
「うん。ちゃんと、見てるだけにする」
そう言いながらも、視線は忙しなく動いている。
イネスは王子の手を軽く引き、人の流れから半歩内側へ寄せた。
ジョエル殿下は、少し後ろに控えている。
護衛も最低限だが、その視線は常に周囲を捉えていた。
(……平和ね)
そう思った、その直後だった。
人の波が、一瞬だけ乱れた。
きゃあ――!
小さな悲鳴。
続いて、慌てた声。
「ちょ、ちょっと!」
反射的に視線を向けると、
若い商人の腰袋から、細い手が離れようとしていた。
(スリ)
判断は一瞬だった。
「殿下、動かないで」
ルイ王子を背に庇い、一歩踏み出す。
魔法を使うほどでもない。
イネスは相手の手首を掴み、そのまま体勢を崩させた。
「――っ!」
軽い衝撃音。
地面に転がったのは、まだ子どもに近い年頃の少年だった。
「……終わりよ」
逃げる気配はない。
周囲がざわつき、すぐに護衛が駆け寄る。
「ありがとうございます!」
「助かりました!」
商人の礼と、周囲の安堵の声。
あっという間の出来事だった。
それは、塔で叩き込まれた基礎の延長にすぎない。
この程度の対処なら、考えるまでもなかった。
ほどなく護衛が警備隊を呼び、事態はあっけないほど早く収束した。
(……大事じゃなくてよかった)
そう思って振り返った瞬間、ジョエル殿下と目が合った。
――その表情に、イネスは息を呑んだ。
怒っている。
それも、隠す気のない、はっきりとした怒りだった。
「……こちらへ」
低く、短い声。
有無を言わせない響きに、イネスは頷くしかなかった。
人目の少ない路地へ移動すると、ジョエル殿下は一度、深く息を吸った。
「なぜ、前に出た」
声音が、いつもより強い。
「状況的に、それが一番早かったので」
「君が怪我をする可能性は考えなかったのか」
一瞬、言葉に詰まる。
「……子どもだと、すぐ判断できたので。問題ないと――」
「それは今回がそうだっただけだろう」
ぴしゃり、と遮られる。
イネスは驚いていた。
叱責されること自体ではない。
彼が、感情を隠さず、そのまま言葉をぶつけてきたことにだ。
「王太子妃が、真っ先に危険へ飛び込む必要はない」
「ですが、私には対処する能力が――」
「能力の問題ではない!」
声が、わずかに震えていた。
その事実に、私は言葉を失う。
「……君が傷ついたら、どうする」
一瞬、沈黙が落ちた。
怒り。
恐怖。
抑えきれない感情が、混ざり合っている。
(……怒っている、だけじゃない)
そう気づいたとき、胸の奥がひどくざわついた。
「申し訳ありません」
とっさに出たのは、謝罪だった。
ジョエル殿下は、はっとしたように口を閉ざす。
数秒、何も言わずに俯いた。
「……言いすぎた」
低い声で、そう告げる。
「だが――」
続く言葉は、なかった。
代わりに、一歩距離を取る。
意識的に、線を引くように。
「次からは、護衛に任せてくれ」
「……はい」
それ以上、言葉を交わすことはなかった。
市場に戻ると、ルイ王子が心配そうにこちらを見上げていた。
「イネス、大丈夫?」
「ええ。何ともありません」
そう答えると、ルイ王子はほっとしたように息を吐く。
けれど、イネスの胸には、ざわついた感情が残っていた。
何かが、確実に変わった。
初めて向けられた、剥き出しの感情。
ただの人形でも、ただの王太子でもない。
それは、一人の人間として、父として、そして――夫としての感情だった。
(……あの人は)
王太子としてではなく。
一人の男として、怒っていた。
その事実は、市場の喧騒をすべてかき消すほどの音で、胸に残っていた。




