7.視察という名の小さな旅
公務に少し慣れてきた頃、王家の直轄地へ視察に出ることになった。
ルイ王子も同行する。三人での、初めての遠出だった。
王子は前日から落ち着かず、寝付けないかもしれないと大興奮していた。
幼い頃、前王太子妃が体調を崩し始めたこともあり、家族で遠出をする機会は多くなかったらしい。
ルイ王子にとって「家族で出かける」という行為そのものが、久しぶりなのだ。
とはいえ名目は視察だ。
けれど、イネスが想像していたより旅程は穏やかだった。
王都から半日ほどの距離にある、小さな街への訪問。
表向きは、近年整備が進んだ街道と水路の確認。
だが実情はもう少し柔らかい理由が混じっている。
「……たまには、外に出たほうがいい」
そう言ったのはジョエル殿下だった。
誰に向けた言葉でもなく、独り言のように。
王宮に籠りきりの生活は、子どもにとっても大人にとっても息が詰まる。
王太子としても、父としても、正しい判断だ。
それに、イネス自身も思い当たる。
空き時間があれば研究室に籠り、食事をおろそかにした日が続いた。
殿下の言葉に、わずかな圧を感じたのは否定できない。
反省しつつ馬車へ向かうと、道中は歓迎の声が絶えなかった。
侍従が何気なく口にする。
「王太子一家のご訪問ですから」
(王太子一家、か……)
その言葉が思いのほか胸に残る。
イネスは王太子妃で、ルイ王子の後見役。
役割としては、何一つ間違っていない。
けれど「一家」という響きには、曖昧で、掴みどころのないものがある。
馬車の中で、一番落ち着いていたのはルイ王子だった。
「ねえ、イネス。着いたら、先に市場に行ってもいい?」
「視察が終わってから、ね」
「えー……」
頬を膨らませながらも、王子はすぐ姿勢を正した。
ジョエル殿下の視線を意識しているのが分かる。
最近のルイ王子は、イネスの前では子どもらしい仕草を見せるようになった。
それが愛おしくて、イネスは内心ずっと癒されている。
いつかは大人にならなければならない。しかも国を背負う立場だ。
せめて今だけは、子どもらしい時間を持ってほしい。
視察の話に戻ると、王子は事前に勉強してきたらしく、すぐ気持ちを切り替えた。
(……えらいわね)
そう思いながらも、イネスは少しだけ気を抜かせるように言葉を足す。
「でも、時間があれば、少しだけなら」
王子の顔がぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「約束はできないけれど」
「それでもいい!」
小さく喜びを噛みしめる様子に、笑みがこぼれた。
向かいの席でそれを見ていたジョエル殿下が、ほんの一瞬目を細める。
父の顔だと気づいたのは、少し後のことだった。
街に到着すると、視察は滞りなく進んだ。
役人たちの説明に耳を傾け、問題点を確認し、必要な指示を出す。
ジョエル殿下はいつも通り冷静で的確で、隙がない。
イネスは少し後ろで、補足があれば意見を添える。
それだけのはずだった。
けれど移動の合間、人目の少ない場所に出た途端、ルイ王子が私の袖を引いた。
「ねえ」
「どうしたの?」
「ここ、前に来たことがある」
「そうなの?」
「うん。お母さまと」
胸が、わずかに締めつけられる。
イネスは何も言えず、ただ続きを待った。
「でもね」
王子は少し考えるように視線を落とし、それから顔を上げる。
「今は、イネスもいるから」
問い返す前に、王子は小さく笑った。
「だから、平気」
平気、という言葉がひどく大人びて聞こえた。
イネスはそっと王子の手を取る。
握り返してくる力は、思ったよりもしっかりしている。
その様子を少し離れた場所からジョエル殿下が見ていた。
何も言わず、止めもしない。
それがひどく自然だった。
視察を終え、短い自由時間が与えられると、ルイ王子は約束を覚えていたらしく、イネスを振り返った。
「……市場、行ける?」
イネスは一瞬、ジョエル殿下を見る。
殿下はわずかに頷いた。
「ああ、時間をみながらだが」
「はーい!」
ルイ王子は嬉しそうに頷き、イネスの手を引いて歩き出す。
その背中を見送りながら、ジョエル殿下が並び、自然と隣に立った。
人混みの中。
無意識のように、イネスたちは王子を挟む位置で歩く。
(……まるで本当の親子、みたく見えるかしら)
そう気づいたとき、胸の奥が静かに温かくなった。
まだ、この形に名前をつけるつもりはない。
違和感が消えたわけでもない。
それでも、外の世界で三人で並んで歩くこの時間は、思っていたよりずっと安心できる。
視察という名の小さな旅は、
イネスにとっても、心に残る思い出になった。




