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悪役令嬢ルートを回避した聖女ですが、乙女ゲーム終了後に王太子の再婚相手になりました  作者: 杜咲凜


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6.近づきすぎる距離


 王太子妃としての生活が始まって、数週間が過ぎた頃。

 イネスは、自分の日常が、少しずつ変質していることに気づいていた。


 大きな変化があったわけではない。

 公務の量が増えたわけでも、人間関係が煩雑になったわけでもない。

 むしろ、表面だけ見れば穏やかで、整っていて、何の問題もなかった。


 それなのに。


(……距離、近くない?)


 そう思う場面が、少しずつ増えていた。


 朝、廊下で顔を合わせる。

 それだけなら、以前と変わらない。

 けれど最近は、挨拶のあとに一拍、沈黙が生まれる。

 視線が合い、そのまま逸らしそびれる一瞬。


 食事も、ルイ王子の希望で三人で取る回数が増えていた。

 けれど、王子がいない日でさえ、

「今日は同席しても構わないか」

と、事前に声がかかることが多くなった。


 断る理由はない。

 王太子妃として、必要な場面でもある。


 ただ。


 向かい合って座ると、視線の高さが気になる。

 声の距離が、少し近い。


 ジョエル殿下は、相変わらず丁寧で、穏やかで、節度を守っている。

 だからこそ、余計に意識してしまうのかもしれない。


 触れない。

 踏み込まない。

 けれど、避けもしない。


 その微妙な距離感が、落ち着かなかった。


(……慣れないだけ、よね)


 そう自分に言い聞かせて、研究室に逃げ込むこともあった。

 魔法陣を描き、資料を読み、思考をそちらに集中させる。


 けれど、集中しているはずなのに、

 ふとした拍子に思い出してしまう。


 廊下で交わした短い会話。

 夫婦として初めて招かれた茶会で、何気なく差し出された手。

 作業的ではない、気遣いとしての所作。


 馬車に乗るとき、背中に添えられた手の位置。

 形式上必要なものだと分かっているのに、心が先に反応してしまう。


 今まで男性との接近がほとんどなかったこと。

 そして、かつては「関われば破滅する」と思い込んでいた相手であること。

 その意識と現実が、うまく噛み合っていなかった。


 どれも、王太子として正しい振る舞いだ。

 そう理解しているはずなのに、心臓の鼓動が一拍、乱れる。


(……変ね)


 理由の分からない動揺ほど、扱いづらいものはない。


 ある日の午後、王宮内の回廊で、偶然ジョエル殿下と居合わせた。

 用件があるわけでもない、ただのすれ違い。


 それでも、彼は足を止めた。


「このあと、時間はあるか」

「ええ。特に予定はありませんが」

「……少し、歩かないか」


 断る理由はなかった。

 並んで歩く、それだけのことだ。


 回廊に差し込む光は柔らかく、外は穏やかな天気だった。

 沈黙が続いても、不思議と気まずくはない。


 けれど、その沈黙の質が、以前とは違う。


 安心しているのに、落ち着かない。

 心が、どこかそわそわしている。


「……最近、無理はしていないか」


 唐突な問いに、一瞬考える。


「していません。塔にいた頃と、変わりませんから」

「そうか」


 それだけのやり取りなのに、

 彼の視線が、いつもより長く向けられている気がして、思わず目を逸らした。


 その動きを見て、

 ジョエル殿下が、わずかに息を止めたのが分かる。


 ほんの一瞬。

 けれど、確かに。


(……あ)


 気づいたときには、もう遅かった。

 イネスが意識していることに、

 彼が気づいてしまったかもしれない、という事実に。


 それからの数歩は、ひどく長く感じられた。


 何かを言うべきか。

 それとも、何事もなかったふりをするべきか。


 結局、どちらも選べずにいると、

 ジョエル殿下が先に口を開いた。


「……君が落ち着かないなら、距離は戻す」


 静かな声だった。

 責めるでも、試すでもない。

 逃げ道を差し出すような言い方。


 その優しさに、胸の奥がちくりと痛んだ。


「いえ」


 思ったより早く、声が出た。


「……嫌では、ありません」


 そう答えた瞬間、

 自分でも驚くほど心臓が跳ねた。


 ジョエル殿下が、わずかに目を見開く。

 けれど、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。


「……そうか」


 それ以上、踏み込んではこなかった。

 ただ、歩く速度を、ほんの少しだけ落とした。


 その距離が。

 その気遣いが。


 なぜか胸に残って、離れなかった。


(……近づきすぎている)


 そう分かっているのに、

 後ろに下がる理由が、見つからない。


 名前のついていない感情を抱えたまま、

 イネスの日常は、静かに、確実に変わり始めていた。

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