4.夫婦生活のはじまり
王太子妃としての生活は、想像していたよりも忙しかった。
ただし、煩わしいという意味ではない。
行事、謁見、視察。
決められた予定を淡々とこなしていけばいい。
塔での生活と比べても、本質はそれほど変わらなかった。
(場所が変わっただけ、ね)
研究室も与えられ、資料も十分。
公務がない時間は、研究室にこもって魔法陣を描いていても、誰にも咎められない。
王宮の防護術式は強固で、多少の失敗なら吸収してくれる設計らしい。
さすがに、王宮だ。
そんな姿を見て、周囲は「王太子妃は研究熱心だ」と好意的に受け取ってくれている。
人間関係も、想像以上に楽だった。
必要以上に踏み込まれない。
過剰な期待も、押しつけられない。
……ひとつを除いて。
王太子――ジョエル殿下との距離感だけは、少しだけ想定外だった。
食事は基本的に別。
寝室も分かれている。
形式上の夫婦であることは、最初から共有されている。
それなのに。
朝の廊下で顔を合わせれば、必ず足を止めて挨拶をされる。
体調を崩したと聞けば、さりげなく医師の手配がされる。
実際には、数日研究室にこもりすぎて食事を抜いていただけなのだが、侍女が心配して大事になっただけだ。
形式ばかりの会議の席でも、必ず私の立ち位置が確保されている。
王太子妃として、常に尊重されていた。
前王太子妃が国民的人気だった分、多少の軋轢は覚悟していた。
けれど嫌味も、冷遇も、今のところ見当たらない。
(……丁寧すぎない?)
悪い気はしない。
ただ、少しだけ戸惑う。
役割を果たすだけの結婚だと、覚悟はしていた。
けれど、前の生活とそれほど変わらない。
結婚は大変で、窮屈で、役割をこなすだけのもの――
そう思っていたのに。
数日後、ルイ王子との正式な顔合わせの日が来た。
案内された私室で待っていると、扉が開き、小さな足音が聞こえる。
現れたのは、想像以上に幼い、金色の髪の男の子だった。
ぱっちりとした瞳。
整った顔立ち。
……確かに、ヒロインによく似ている。
(かわいい……)
思わず、表情が緩む。
「こちらが、王太子妃だ」
ジョエル殿下の紹介に、ルイ王子は一瞬だけ私を見上げ、
それから、きちんと姿勢を正した。
「はじめまして。よろしくおねがいします」
幼いながら、驚くほどしっかりした挨拶だった。
(えらい……)
イネスは自然と膝を折り、目線を合わせる。
「こちらこそ、よろしくね。
そんなに堅苦しくしなくて大丈夫よ」
そう言って微笑むと、王子は少しだけ肩の力を抜いた。
その様子を見ていたジョエル殿下が、わずかに目を瞬かせる。
(……あ)
今のは、驚いた顔だ。
ほんの一瞬。
けれど確かに、完璧なお人形の表情が崩れた。
王子はそれから私の隣にちょこんと座り、
絵本の話や、最近覚えた魔法の話をしてくれた。
イネスは相槌を打ち、ときどき質問を返す。
それだけで、場の空気は柔らいでいった。
(子どもって、不思議ね)
無理に距離を縮めなくても、自然と人をつないでしまう。
「また、おはなししてもいいですか」
「ええ。いつでも」
王子は嬉しそうに微笑んだ。
部屋を出たあと、しばらく沈黙が続く。
「……助かった」
先に口を開いたのは、ジョエル殿下だった。
「助かった、とは?」
「あの子は人見知りでな。
ここまで打ち解けるとは思わなかった」
少し、意外だった。
「子どもは、構えすぎなければ案外平気なものです」
そう返すと、彼はまた言葉に詰まった。
「……君は、不思議だな」
「そうですか?」
「……いや」
それ以上は、続かなかった。
姿勢も、声色も整っている。
それなのに、どこか噛み合わない。
(……慣れていないのね、きっと)
役割ではない距離感に。
その夜、自室へ戻ろうとしたとき、廊下の角でジョエル殿下と行き会った。
月明かりに照らされた横顔は、いつもの無機質さとは違って見える。
「……無理をさせていないだろうか」
「いいえ。私の役割ですから」
即答すると、彼は視線を落とし、沈黙した。
また、この噛み合わない間。
(突き放しているつもりはないのだけれど)
それ以上、言葉を足すことはしなかった。
彼は、王族としても父としても、誠実に務めている。
尊敬できる人だと思う。
ただ、どこか遠い。
イネスは、王太子という存在を、少し離れた場所から見ているだけだ。
それでも、言葉を交わす関係は続いていく。
ルイ王子を見守り育てる役割を果たすだけ――
そう自分に言い聞かせながら、なぜか少しだけ、彼の背中が寂しそうに見えた。




