17.迎えた朝
朝の光は、思っていたよりも穏やかだった。
私は自室で身支度を整えながら、何度目か分からないため息をつく。
(……何も、変わっていない)
ドレスも、髪型も、侍女たちの態度も、昨日までと同じ。
それなのに、胸の奥だけが、少し違う。
触れた記憶は残っているのに、
触れなかった距離も、はっきり覚えている。
――ここまで。
あの言葉が、不思議なほど記憶に残る。
キスをしてしまった。
単なるキスではない。
たぶん、夫婦としてのキス。
朝食の席には、ルイ王子が先に来ていた。
椅子の上で足を揺らしながら、私の姿を見つけると、ぱっと顔を明るくする。
「おはよう、イネス!」
「おはようございます」
自然に微笑み返す。
それができることに、少し安心した。
すぐ後に、ジョエル殿下が入室する。
いつも通りの所作。
いつも通りの距離。
目が合ったのは、一瞬だけだった。
それだけで、昨夜の静かな熱が、確かに「現実」だったと分かる。
朝食は、穏やかに進んだ。
ルイ王子が視察先の話を蒸し返し、市場で見たもの、食べたものを楽しそうに語る。
私は相槌を打ち、ジョエル殿下は時折、補足を入れる。
――完璧な、王太子一家の朝。
けれど。
「……父上?」
ルイ王子が、不意に首を傾げた。
「今日は、少し静かだね」
その一言に、イネスは思わず咳払いをしてしまった。
「そうか?」
ジョエル殿下は、普段と変わらぬ声で返す。
「うん。いつもは、もう少し……」
言葉を探すように、王子は私を見る。
「……緊張してる?」
核心を突くのが、子どもは上手い。
「そ、そんなことはありませんよ」
イネスが先に答えると、
ジョエル殿下が一瞬だけ、口元を緩めた。
それを見て、ルイ王子は納得したように頷く。
「そっか。じゃあ、いいや」
(いいんだ……)
深く追及しない優しさに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
朝食後、ルイ王子は家庭教師のもとへ向かった。
イネスは資料を届けるため、回廊を歩く。
途中、足音が重なった。
「……イネス」
振り返ると、
ジョエル殿下が、少し距離を取って立っていた。
「昨夜のことだが」
心臓が、静かに跳ねる。
「後悔は、していない」
先に言われて、私は少しだけ驚いた。
「……私もです」
その言葉に、彼は安堵とも取れる息を吐いた。
「なら、いい」
それだけだった。
抱き寄せることも、触れることもない。
けれど。
「今日も、公務が終わったら」
少し言い淀んでから、
「……時間があれば、話そう」
誘いというより、確認。
「はい」
短い返事でも、十分だった。
彼はそのまま立ち去る。
背中は、いつも通り真っ直ぐで、王太子としての威厳を崩していない。
それなのに――
(……近い)
物理的な距離ではない。
心の位置が、確実に変わっている。
イネスは一人になった回廊で、小さく息を整えた。
急がない。戻らない。昨夜を「なかったこと」にもしない。
ただ、キスをして別れて朝を迎えた。
それだけで、十分すぎるほどの変化だった。




