15.今度こそ
晩餐会の翌朝、イネスはほとんど眠れないまま目を覚ました。
体が重いわけではない。熱があるわけでもない。
ただ、思考だけが、やけに冴えてしまっていた。
(……昨日のこと)
音楽。
距離。
触れた手の温度。
何度思い返しても、結論は同じところに戻ってくる。
(意識、してしまっている)
それを認めた途端、胸の奥がそわりと落ち着かなくなった。
意識すればするほど、胸の高鳴りが体中に駆け巡り、息苦しくなる。
だから、その日の午前は研究室に籠もることにした。
いつも通り、魔法陣を書き、式を組み立てる。
頭を使えば、余計なことを考えずに済むはずだった。
――けれど。
「失礼する」
静かな声とともに、扉がノックされた。
顔を上げると、そこに立っていたのは、ジョエル殿下だった。
「……殿下?」
珍しい。
事前の連絡もなく、研究室を訪ねてくることはほとんどない。
「少し、時間をもらえるだろうか」
断る理由はなかった。
けれど、胸の鼓動が一拍、早まる。
「はい」
そう答えると、彼は一歩だけ中に入った。
扉は閉めない。
逃げ道を残す距離。
「昨夜のことだが」
来る、と分かっていた言葉。
それでも、指先が無意識にペンを握り直す。
「……不快ではなかったか」
静かな問いだった。
責める調子でも、探る調子でもない。
ただ、確かめるための声。
「いいえ」
即答だった。
自分でも驚くほど、迷いがなかった。
ジョエル殿下は、わずかに息を吐いた。
「……そうか」
ほんの少し、肩の力が抜けたのが分かる。
沈黙。
けれど、気まずさはなかった。
ジュエル殿下は、イネスを見ていた。
「君は……自覚がない」
ぽつりと、そう言われた。
「何の、ですか」
「人を惹きつけるということに、だ」
意外な言葉だった。
「私は、特別なことはしていません」
「分かっている」
だからこそ、困るのだと、言外に滲んでいた。
「……君は、踏み込まれない距離を保ったまま、心に入ってくる」
その言葉に、胸が小さく震える。
「それは……」
「責めているわけではない」
被せるように、彼は続けた。
「むしろ、感謝している。ルイも……私も」
そこで、ほんの一瞬だけ言葉が詰まった。
(……今、彼は、何かを言いかけた?)
「だから、これ以上、曖昧にはしたくない」
視線が、まっすぐこちらを捉える。
「君がもし嫌なら、距離を取る。だが――」
そこで、はっきりと間が置かれた。
「もし、そうでないなら」
彼は、ゆっくりと一歩近づいた。
それでも、触れない。
触れない距離で、確実に導く。
「きみにもっと、近づいてもいいだろうか?」
その言葉は、甘い約束ではなかった。
ただただ、必死に懇願するような、苦しそうな表情でイネスを見つめている。
胸の奥が、じん、と熱を持つ。
(……ずるい)
こんなふうに言われて、何も感じないわけがない。
「私は……」
言葉を探し、一度、息を整える。
「まだ、整理が……」
「構わない」
即座に返ってきた。
「急がせるつもりはない」
それでも、ジュエル殿下は引かない。
「ただ、覚えておいてほしい」
視線が、柔らかくなる。
「君が迷ったとしても、もし少しでも可能性があるなら。君に近づきたい、今度こそ」
その言葉に、胸の奥で何かが、静かに崩れた。
逃げるための沈黙は、もう使えない。
イネスは、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
それだけで、十分だったのだろう。
ジョエル殿下は、それ以上何も言わず、ただ一礼して、部屋を出ていった。
残された研究室で、イネスはしばらく、その場から動けなかった。
あの王太子が、まっすぐ気持ちを向けてきている。
けれど、無理やりではない。
(………最後に選ぶのは、私。)
そう分かっているからこそ、心臓の音が、やけに大きく聞こえた。




