14.触れられる距離
新興貴族の処分が水面下で進み、王都には、ようやく落ち着いた空気が戻りつつあった。
そして王家の盤石さを示すために開かれたのが、王宮主催の晩餐会だった。
名目は祝宴。実態は、忠誠の再確認である。
集まるのは、旧貴族、新興貴族、文官、軍関係者。
誰もが笑顔を浮かべながら、互いの立ち位置を測っている。
イネスは、久しぶりに正装を身に纏っていた。
淡い緑色のドレス。
装飾は控えめだが、動くたびに柔らかく光を反射する。
このドレスは、王太子が選んだものだった。
もちろん侍女たちは、王太子の瞳の色や、髪色に合わせたものを強く勧めてきた。
断るという選択肢は、最初からなかった。
「……似合っている」
隣で、ジョエル殿下がそう言った。
「ありがとうございます」
それだけのやり取り。
けれど、その声が少しだけ硬いことに、私は気づいた。
(……少し、緊張している?)
王太子としての彼は、完璧だった。
挨拶も、立ち居振る舞いも、非の打ち所がない。
それなのに。
音楽が変わり、
舞踏の時間が告げられた、その瞬間。
「王太子殿下、王太子妃殿下。ぜひ、一曲」
断れる状況ではなかった。
「……参りましょう」
そう言って差し出された王太子の手。
イネスは、ほんの一瞬だけ迷ってから、その手を取った。
掌の温度が、はっきりと伝わる。
(……近い)
ダンスは、何度も経験している。
ただ、王太子と踊るのは、これが初めてだった。
これまで、二人で踊ることは意識的に避けてきた。
運命が壊れてはいけないと、細心の注意を払っていたから。
社交界デビューの場でも、王太子からの視線を感じながら、素知らぬ顔をした。
何度も開かれた舞踏会でも、彼がこちらに気づくと、近くの若い紳士と踊り、距離を取ってきた。
音楽に合わせて歩み出す。
腰に添えられた手の位置。
視線の高さ。
すべてが、必要以上に気になってしまう。
ジョエル殿下は、いつも通りだった。
動きは正確。
距離も、礼節の範囲内。
――外から見れば。
けれど、イネスは気づいてしまった。
彼の呼吸が、わずかに乱れていること。
指先に、力がこもっていること。
(……混乱している)
その事実に、胸が小さく跳ねた。
無機質だと思っていた人。
完璧な王太子。
感情を、表に出さない人。
けれど、本当の彼は違う。
王太子として。父として。夫として。
そして、一人の男性として――確かに感情を持っている。
イネスは、それをもう知ってしまっていた。
「……大丈夫ですか」
囁くように聞くと、ジョエルは一瞬だけ目を伏せた。
「……問題ない」
即答だった。
けれど、その声は、わずかに掠れている。
(嘘)
そう思った瞬間、
なぜか私まで落ち着かなくなった。
視線を逸らそうとして、逸らせない。
近すぎる距離で、互いの存在を否応なく感じてしまう。
(これだけのことなのに……)
王国の将来を担う王太子。
これまで、数えきれないほどの貴婦人や令嬢と踊ってきたはずだ。
それなのに、その所作は、まるで社交界に出たばかりの若い紳士のようで。
そのわずかなぎこちなさが、イネスの胸を締め付けた。
身体が、ひどく熱くなる。
音楽が終わる。
拍手が起こり、
周囲から、囁き声が聞こえた。
「お似合いだ」
「さすがだな」
その言葉が、遠く感じられた。
ジュエルは、イネスを離した。
名残惜しさを映すように、じっと見つめ――
それから、未練を断ち切るように視線を逸らした。
「……失礼する」
そう言って、ほんの一礼。
それ以上、何も言わなかった。
その夜。
部屋に戻っても、眠れなかった。
ジュエルも、同じだろう。
そう考えるだけで、身体が熱くて仕方なかった。
触れていないのに、確かに触れてしまった。
踏み込んでいないのに、一歩、近づいてしまった。
この距離は、近すぎて――
でも、もう戻れない。
その事実だけが、静かに、確実に、胸に残っていた。




