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悪役令嬢ルートを回避した聖女ですが、乙女ゲーム終了後に王太子の再婚相手になりました  作者: 杜咲凜


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12. イネスの場所



 事件のあった夜から、数日が過ぎた。

 王宮は、驚くほど静かだった。

 警備は強化され、人の出入りは制限されている。

 それでも、表向きは何事もなかったかのように日常が流れていた。


 イネスは、久しぶりに研究室ではなく、ルイ王子の私室を訪れていた。

 寝る前に絵本を読んでほしい、とせがまれたのだ。

 侍女によると、あまり寝つきがよくないという。

 あの事件が、まだ心に残っているのだろう。


「ここ、まえより明るいね」


 ルイ王子が、窓辺を指差して言う。

 事件のあと、部屋の配置が少し変えられ、カーテンも薄い色に替えられていた。


「怖くならないように、ですか?」

「うん。夜でも、ちょっと安心する」


 そう言って、ルイ王子はベッドの端に腰かける。

 イネスはその隣に座り、絵本を一冊手に取った。


「今日は、どれにします?」

「……これ」


 王子が選んだのは、昔話の英雄譚だった。

 怪物を倒す話ではなく、旅をして、帰る話。

 読み進めるうちに、王子の呼吸がゆっくりになる。

 緊張が、少しずつ解けていくのが分かる。


(……無理をさせているのかもしれないわ)


 そう思いながら、ページをめくる。

 やがて、扉の向こうに気配がした。


「……まだ、起きているか」


 静かな声。

 ジョエル殿下だった。


「父上!」

 ルイ王子が嬉しそうに顔を上げる。


「……邪魔ではなかったか」

「いいえ。もう少しで、終わるところです」


 ジョエル殿下は部屋の中を一瞥し、王子の様子を確かめる。

 やがて、絵本を読み終える頃には、ルイ王子はすっかり安心し、穏やかな寝息を立てていた。


「……よく、眠っているな」

「ええ」


 一言、二言のやり取り。

 それだけなのに、空気が柔らぐ。

 部屋の灯りを落とし、二人は静かに私室を出た。


 それぞれの部屋へ戻るため回廊を歩き始めると、

 ジョエル殿下が自然と歩調を合わせてきた。


「……あのあと、怖くなかったか」


 廊下を進みながら、ぽつりと問われる。


「もちろん、怖かったですよ」


 イネスは、正直に答えた。


「でも、安心感のほうが大きかったです。

 ルイ王子を守れてよかったと。本当に……よかったと」


 ジョエル殿下は、足を止めた。


「……もし、あのとき守れなかったら」  


イネスは弱々しく肩を落とす。


「それが、一番怖い」 


想像だけでも恐怖の光景に顔が歪む。

  

「また同じことが起きて、私が傍にいられなかったら……」


 沈黙が落ちる。だが、感情を初めて王太子に出せた感覚。それは居心地の悪いものではなかった。


「……イネス、ありがとう」


 その言葉は、王太子としてではなく、ひとりの父としてのものだった。


「はい、殿下」


 そのいつくしむような声に、イネスは胸が少しだけ締めつけられる。


 翌日から、三人で過ごす時間が増えた。

 朝食。

 短い散歩。

 執務の合間の、ほんのひととき。


 特別なことはしない。

 けれど、ルイ王子は自然とイネスの隣に座り、ジョエル殿下も、それを当たり前のように受け入れている。


 ある日、ルイ王子が不意に言った。


「ねえ」

「どうしました?」

「……ぼくね」


 少しだけ、言い淀んでから。


「イネスが、ここにいてくれて、よかった」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「私も、王子の傍にいられてうれしいです」


 それだけで、王子は満足そうに笑った。

 ジョエル殿下は少し離れた場所で書類を閉じ、その様子を見ていた。


 視線が合う。

 何も言わない。

 けれど、確かに伝わるものがあった。


(……この時間が、幸せだわ)


 ただ同じ場所にいて、同じ時間を過ごし、互いを気にかけている。

 それだけで、イネスは満たされていた。


 ここが、自分の場所なのだと。

 静かで、脆くて、それでも一番に守りたい場所だと。


 その夜、部屋へ戻る途中、廊下の灯りが少し暗く感じられた。

 事件の記憶が脳裏をよぎる。

 けれど、迷いはない。


 イネスは、彼らを守ると決めていた。

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