10.崩れた仮面
「イネス!」
呼ばれた名前に、肩がわずかに跳ねた。
扉の前に立っていたジョエル殿下は、息を切らし、外套も羽織らぬまま――明らかに駆けてきた様子だった。
王太子として、これまで一度も見たことのない乱れた姿。
顔は蒼白で、目は強く見開かれ、感情を隠す余裕などない。
「……殿下」
名を呼び返しただけで、ジュエルは信じられないというような表情を浮かべ、数歩で距離を詰めた。
「無事か」
短い言葉。
けれど、声が微かに震えている。
「はい。少し、擦り傷があるだけで……」
言い終える前に、彼の視線が私の腕に留まった。
服の下、隠しきれなかった痣。
一瞬、空気が凍る。
「……誰が、触った」
低く、抑えた声だった。
怒りと恐怖が、ぎりぎりのところで均衡を保っている。
「大したことではありません」
「そう判断するのは、君じゃない」
きっぱりと遮られる。
その言葉で、この人が本当に怒っているのだと理解した。
王太子としてでも、夫としてでもない。
――守れなかった者としての怒り。
それは、ジョエルが自分自身を責める感情だった。
苦しそうに歪む表情を見て、不謹慎にも美しいと感じてしまう自分に、イネスは戸惑った。
「どうして、戻るまで知らせなかった」
「状況が落ち着くまで、動けませんでしたから」
「なぜ、一人で対処した」
問いが、次々と投げかけられる。
イネスは、正直に答えるしかなかった。
「ルイ王子を最優先にしました」
「……」
沈黙。
その一言が、決定打だった。
「君は……」
ジュエルは言葉を探すように視線を逸らし、次の瞬間、拳を強く握りしめた。
「二度と、あんなことはするな」
声が、掠れている。
「私は――」
息を吸い、吐く。
「……私は、王妃を一度失っている」
その言葉は、剣のように鋭く、
同時に、壊れやすかった。
「もし、君に何かがあれば……」
言葉が途切れる。
ジュエルはイネスを見なかった。
見れば、崩れてしまうと分かっているかのように。
「もう、耐えられない」
低く、絞り出すような声。
沈黙が、部屋を満たす。
イネスは、何も言えなかった。
この人が、こんなふうに感情を露わにする姿を、初めて見たから。
顔を背け、必死に感情を抑えようとしているのか、肩が震えている。
もしかして泣いているのではないか。
そんな心配さえ、よぎった。
「……すまない」
やがて、ジュエル殿下は深く息を吐いた。
顔を上げたその表情は、まだ感情の乱れを残しながらも、かろうじて冷静さを取り戻している。
「怒鳴るつもりはなかった」
「……いいえ」
イネスは、ゆっくりと首を振る。
「叱ってくださって、ありがとうございました」
その言葉に、ジュエル殿下がはっと顔を上げる。
「私は、ずっと王子を守るのが役割だと思っていました。それは今も変わりません。
でも……守られていると知ることも、これほど心配してくださる存在がいると認識することも、必要だったのだと思います」
自分の声が、思ったよりも静かだった。
ジョエル殿下は何も言わない。
距離を詰めるでも、離れるでもなく、その場に立ち尽くしていた。
やがて、彷徨うようにそっと手を伸ばし、イネスの頬に触れかけて――
しかし、すぐに手を下ろす。
けれど、見つめる瞳は熱を帯びていて、イネスは目を逸らすことができなかった。
ずっと完璧な王太子が纏っていた、硬く冷たい殻。
その下にあったのは、失うことを恐れる、一人の人間だった。
そしてイネスは――
これまで人形のように見ていた王太子を、初めて「異性」として認識してしまい、内心に小さな戸惑いを抱き始めていた。




