自分を取り戻す
目覚ましの音が鳴ったとき、私はすぐに手を伸ばした。
止める指に、迷いはなかった。
窓の外は、明るい。
昨日より、ほんの少しだけ。
身支度をしながら、鏡の前で立ち止まる。
顔色は悪くない。ちゃんと眠れた証拠だ。
失恋した事実は消えていない。
でも、それがすべてじゃなくなってきている。
会社に着くと、自然に席に向かえた。
足取りは、いつも通り。いや、いつもより軽いかもしれない。
午前中の会議では、資料説明を任された。
人前で話すのは得意じゃない。それでも、言葉は詰まらなかった。
「ここは、こうした方が効率が上がります」
自分の声が、落ち着いている。
説明が終わると、上司が頷いた。
「いいね。その案でいこう」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
仕事をしているときの私は、ちゃんと私だ。
誰かの恋人じゃなく、仕事をしている一人の人間。
昼休み、久しぶりに同僚と食堂に向かった。
たわいない話に、笑い声が混じる。
笑えている自分に、驚かない。
それが、嬉しかった。
「調子、戻ってきました?」
高橋さんが、何気なく聞く。
「……はい。少しだけ」
「それなら、よかった」
それだけのやり取り。
それが、ちょうどいい。
午後、集中して作業を進める。
細かい確認も、自然にできる。
夕方には、懸案だった案件が一つ片付いた。
「助かりました」
上司の言葉に、深く息を吐く。
私は、ちゃんとやれている。
誰かに依存しなくても。
退社後、駅へ向かう途中で足を止めた。
少しだけ、寄り道したくなる。
小さな書店に入り、棚を眺める。
仕事と関係のない、エッセイ本を手に取った。
前は、こんな時間、全部彼と過ごしていた。
その事実に、胸が痛む。
でも、もう立ち止まらない。
レジで本を買い、店を出る。
夜風が、心地よい。
駅のホームで電車を待ちながら、スマートフォンを取り出す。
連絡先は、そのままだ。でも、開かない。
今は、それでいい。
「お疲れさまです」
背後から声がした。
振り返ると、高橋さんがいた。
「今日は、いい顔してますね」
少し驚いて、笑ってしまう。
「そうですか?」
「ええ」
それ以上、言葉はいらなかった。
電車が来て、扉が開く。
乗り込む前、私は一度だけ振り返った。
誰かに必要とされる前に、
自分を取り戻す。
それが、今の私には一番大切だった。




