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失恋の翌日も、出社する  作者: 朝倉 ひより


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4/7

共有される沈黙

 雨は、翌朝には上がっていた。

 アスファルトに残る濡れた跡だけが、昨日の出来事を覚えているみたいだった。


 電車に揺られながら、私は窓に映る自分の顔を見つめる。

 目の腫れは引いている。泣いた痕跡は、もうほとんど残っていない。


 それでも、胸の奥はまだ重い。

 ただ、昨日までとは少しだけ違う重さだった。


 オフィスに着くと、高橋さんはすでに席にいた。

 軽く目が合い、どちらからともなく小さく会釈をする。


「おはようございます」


「おはようございます」


 それだけ。

 昨日の雨の話も、残業の話も、何も出てこない。


 それでよかった。


 午前中は、黙々と作業を進めた。

 集中は戻っている。完璧ではないけれど、昨日ほど不安定でもない。


 隣でキーボードを打つ音が、一定のリズムで続いている。

 その音が、妙に心地よかった。


 昼休み、私は一人で外に出た。

 誰かと話したくないわけじゃない。ただ、今日は静かに過ごしたかった。


 コンビニでおにぎりを買い、近くの公園のベンチに座る。

 風が、少し冷たい。


 スマートフォンを取り出して、画面を眺める。

 連絡は来ていない。来るはずもない。


 それでも、昨日までより、胸の痛みは和らいでいた。

 誰かに寄りかかるわけじゃなく、ただ一人で呼吸ができている。


 午後、資料作成をしていると、プリンターが止まった。


「あ……」


 用紙切れだ。


 立ち上がろうとした瞬間、隣から手が伸びた。


「補充します」


 高橋さんだった。


「ありがとうございます」


 それだけ言って、また画面に向き直る。

 会話は、それで終わり。


 でも、その短さが、今はありがたい。


 定時が近づく頃、部署全体に少し緩い空気が流れた。

 今日の山場は越えた、そんな雰囲気。


「今日は、残りますか」


 高橋さんが、低い声で聞く。


「いえ……今日は帰ります」


 そう答えると、少し驚いたように頷いた。


「そうですか」


 それ以上、何も言わなかった。


 エレベーターに乗り、下へ降りる。

 鏡に映る自分は、昨日よりも少しだけ落ち着いて見えた。


 会社を出ると、夕焼けが空を染めていた。

 昨日の雨が嘘みたいに、穏やかな色。


 駅へ向かう途中、後ろから足音が近づく。


「美咲さん」


 振り返ると、高橋さんがいた。


「方向、同じでしたよね」


「……はい」


 二人で並んで歩き出す。

 会話はない。けれど、沈黙が重くない。


 足音が揃う。信号で止まる。

 それだけのことが、安心に変わる。


「昨日は」


 高橋さんが、ぽつりと口を開いた。


 一瞬、身構える。


「……ありがとうございました」


 それだけだった。


「いえ」


 短く返す。


 それ以上の言葉は、必要なかった。


 駅に着き、改札の前で立ち止まる。


「また明日」


「はい。また明日」


 別れ際、胸に残ったのは、不安でも期待でもない。


 ただ、

 一人で立っていても、誰かと同じ場所にいられる感覚。


 失恋は、まだ終わっていない。

 けれど、私はもう、感情に溺れてはいなかった。


 沈黙を共有できる相手がいる。

 それだけで、今日は十分だった。


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