崩れた集中力
朝、会社に向かう足取りが、少しだけ重かった。
理由はわかっている。昨日まで、仕事という枠に押し込めていた感情が、少しずつ外に滲み出てきているからだ。
オフィスに着くと、いつもより早く席に着いた。
キーボードを叩く音が、周囲よりもわずかに大きく感じる。
集中しなきゃ。
そう思えば思うほど、頭の奥に別の映像が浮かぶ。
「好きだった」
過去形になったその言葉が、胸に刺さる。
午前中の作業は、順調だった。単純な入力、確認、メール対応。考えなくていい仕事に没頭することで、何とかバランスを保っていた。
けれど、午後に入った途端、歯車がずれた。
「……あ」
画面を見て、声が漏れる。
提出済みの資料に、致命的な抜けがあった。
心臓が、ひどく速く打ち始める。
なんで気づかなかったんだろう。
こんなミス、普段なら絶対にしないのに。
指が冷たくなる。呼吸が浅くなる。
上司に報告しなきゃ。
頭ではわかっているのに、体が動かない。
「美咲さん?」
背後から声がして、びくりと肩が跳ねた。
振り返ると、高橋さんが立っていた。画面を見て、状況を察したらしい。
「……修正、必要そうですね」
責める調子は一切なかった。
「私、確認不足で……」
言葉にした瞬間、胸の奥が詰まる。
仕事の話なのに、別の感情が混ざりそうになる。
「一緒に見ましょうか」
その一言で、張りつめていたものが、少しだけ緩んだ。
二人で資料を確認し、修正点を洗い出す。淡々とした作業。けれど、隣に人がいるだけで、呼吸が戻っていく。
「ここ、差し替えれば大丈夫です」
「……ありがとうございます」
声が、少し震えた。
修正後、上司に再提出すると、問題なく受理された。
それでも、胸のざわつきは収まらない。
トイレに立ち、個室に入る。鍵をかけた瞬間、膝から力が抜けた。
「……なんで」
声が、かすれる。
仕事は好きだ。
ちゃんとやりたい。
それなのに、感情一つで、こんなにも簡単に崩れるなんて。
涙が、ようやく溢れてきた。
声を殺して、手で口を押さえる。今さら泣くなんて、遅すぎるのに。
失恋したことよりも、
自分が弱っている事実を認めるのが、怖かった。
洗面所で顔を整え、何事もなかったように席に戻る。
高橋さんは、何も言わなかった。
定時が過ぎても、私は席を立てなかった。帰りたくないわけじゃない。ただ、今日は一人になるのが、少し怖い。
「残ります?」
高橋さんが、静かに聞く。
「……少しだけ」
「じゃあ、僕も」
それ以上の理由はなかった。
オフィスには、キーボードの音だけが残る。
並んで作業する時間は、思ったよりも落ち着いた。
「……今日」
ふいに、口を開いてしまった。
「ちゃんとできてなかったですよね」
「そんなことないです」
即答だった。
「誰でも、集中できない日はあります」
その言葉に、胸が熱くなる。
「……ありがとうございます」
それだけで、十分だった。
夜のオフィスを出る頃、雨が降り始めていた。
小さな雨音が、アスファルトを叩く。
「傘、ありますか」
「いえ……」
高橋さんは、無言で自分の傘を差し出した。
二人で一つの傘に入る。距離は近いのに、不思議と苦しくない。
今日一日で、何かが終わったわけじゃない。
でも、崩れても、立て直せると知った。
失恋は、まだ続いている。
それでも私は、完全には一人じゃなかった。




