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失恋の翌日も、出社する  作者: 朝倉 ひより


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3/7

崩れた集中力

 朝、会社に向かう足取りが、少しだけ重かった。

 理由はわかっている。昨日まで、仕事という枠に押し込めていた感情が、少しずつ外に滲み出てきているからだ。


 オフィスに着くと、いつもより早く席に着いた。

 キーボードを叩く音が、周囲よりもわずかに大きく感じる。


 集中しなきゃ。

 そう思えば思うほど、頭の奥に別の映像が浮かぶ。


 「好きだった」


 過去形になったその言葉が、胸に刺さる。


 午前中の作業は、順調だった。単純な入力、確認、メール対応。考えなくていい仕事に没頭することで、何とかバランスを保っていた。


 けれど、午後に入った途端、歯車がずれた。


「……あ」


 画面を見て、声が漏れる。

 提出済みの資料に、致命的な抜けがあった。


 心臓が、ひどく速く打ち始める。


 なんで気づかなかったんだろう。

 こんなミス、普段なら絶対にしないのに。


 指が冷たくなる。呼吸が浅くなる。


 上司に報告しなきゃ。

 頭ではわかっているのに、体が動かない。


「美咲さん?」


 背後から声がして、びくりと肩が跳ねた。


 振り返ると、高橋さんが立っていた。画面を見て、状況を察したらしい。


「……修正、必要そうですね」


 責める調子は一切なかった。


「私、確認不足で……」


 言葉にした瞬間、胸の奥が詰まる。

 仕事の話なのに、別の感情が混ざりそうになる。


「一緒に見ましょうか」


 その一言で、張りつめていたものが、少しだけ緩んだ。


 二人で資料を確認し、修正点を洗い出す。淡々とした作業。けれど、隣に人がいるだけで、呼吸が戻っていく。


「ここ、差し替えれば大丈夫です」


「……ありがとうございます」


 声が、少し震えた。


 修正後、上司に再提出すると、問題なく受理された。

 それでも、胸のざわつきは収まらない。


 トイレに立ち、個室に入る。鍵をかけた瞬間、膝から力が抜けた。


「……なんで」


 声が、かすれる。


 仕事は好きだ。

 ちゃんとやりたい。

 それなのに、感情一つで、こんなにも簡単に崩れるなんて。


 涙が、ようやく溢れてきた。

 声を殺して、手で口を押さえる。今さら泣くなんて、遅すぎるのに。


 失恋したことよりも、

 自分が弱っている事実を認めるのが、怖かった。


 洗面所で顔を整え、何事もなかったように席に戻る。

 高橋さんは、何も言わなかった。


 定時が過ぎても、私は席を立てなかった。帰りたくないわけじゃない。ただ、今日は一人になるのが、少し怖い。


「残ります?」


 高橋さんが、静かに聞く。


「……少しだけ」


「じゃあ、僕も」


 それ以上の理由はなかった。


 オフィスには、キーボードの音だけが残る。

 並んで作業する時間は、思ったよりも落ち着いた。


「……今日」


 ふいに、口を開いてしまった。


「ちゃんとできてなかったですよね」


「そんなことないです」


 即答だった。


「誰でも、集中できない日はあります」


 その言葉に、胸が熱くなる。


「……ありがとうございます」


 それだけで、十分だった。


 夜のオフィスを出る頃、雨が降り始めていた。

 小さな雨音が、アスファルトを叩く。


「傘、ありますか」


「いえ……」


 高橋さんは、無言で自分の傘を差し出した。


 二人で一つの傘に入る。距離は近いのに、不思議と苦しくない。


 今日一日で、何かが終わったわけじゃない。

 でも、崩れても、立て直せると知った。


 失恋は、まだ続いている。

 それでも私は、完全には一人じゃなかった。

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