職場という逃げ場
昼休みのチャイムが鳴っても、私は席を立てずにいた。
画面の中の数字を追っているふりをしながら、実際には何も頭に入ってこない。
空腹はある。けれど、それ以上に、誰かと話す気力がなかった。
「……あとでいいか」
そう呟いて、資料をスクロールする。仕事をしていれば、時間は勝手に進んでくれる。感情を置き去りにしたままでも。
周囲では椅子が引かれる音や、雑談が始まっていた。楽しそうな声が、今日は少しだけ遠い。
「美咲さん」
また、隣から声がする。
顔を上げると、高橋さんが立っていた。今度はマグカップではなく、コンビニの袋を持っている。
「昼、行かないんですか」
「……あ、行きます」
反射的に答えてしまった。断る理由を考える前に、言葉が出た。
二人でエレベーターに乗る。沈黙が落ちるが、気まずさはなかった。無理に埋めなくていい沈黙は、こんなにも楽なんだと初めて知る。
近くの定食屋に入る。いつもの店、いつもの席。メニューも見ずに日替わりを頼む。
「……最近、忙しいですか」
高橋さんが、箸を割りながら言った。
「いえ、特別には」
「そうですか」
それで会話は終わった。
詮索しない、踏み込まない。それが彼の距離感らしい。
食事の味は、よくわからなかった。ただ、口に運ぶ動作を繰り返していると、不思議と呼吸が整っていく。
「美咲さん」
ふいに名前を呼ばれ、顔を上げる。
「無理しないでくださいね」
それだけだった。
理由も、説明も、続きもない。
胸の奥が、きゅっと縮む。
優しさを向けられると、壊れそうになるから怖い。
「……はい」
短く答えて、目を伏せた。
午後の業務は、午前中よりも集中できた。細かい確認作業を一つずつ片付けていくうちに、頭の中の雑音が少しずつ減っていく。
仕事は、裏切らない。
やった分だけ、進む。感情とは違って。
夕方、会議資料をまとめ終えた頃には、外は薄暗くなっていた。
「これ、今日中で大丈夫です」
そう言って資料を提出すると、上司は満足そうに頷いた。
「助かるよ。ありがとう」
その一言で、肩の力が抜ける。
ちゃんと役に立てている。その事実が、今は何よりも支えだった。
退社時間になっても、私はすぐに立ち上がれなかった。家に帰れば、一人だ。静かな部屋で、考えてしまう。
その時、隣の席から椅子を引く音がした。
「今日は、このあと用事ありますか」
高橋さんが、カバンを持って立っている。
「いえ、特には……」
「よかったら、駅まで一緒にどうですか」
断る理由はなかった。
夕方の風は冷たく、頬に心地よい。並んで歩く距離は近すぎず、遠すぎない。
「仕事、好きですか」
唐突な質問に、少し考える。
「……嫌いじゃないです」
「それ、いいと思います」
それだけ言って、彼は歩調を合わせた。
駅の改札前で立ち止まる。
「では、また明日」
「はい。また明日」
別れ際、胸に残ったのは寂しさではなかった。
明日も来ていい場所がある、という安心感。
失恋は、まだ癒えていない。
でも、職場は逃げ場になってくれている。
私は今日も、ちゃんと帰路についていた。




