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失恋の翌日も、出社する  作者: 朝倉 ひより


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2/7

職場という逃げ場

 昼休みのチャイムが鳴っても、私は席を立てずにいた。

 画面の中の数字を追っているふりをしながら、実際には何も頭に入ってこない。


 空腹はある。けれど、それ以上に、誰かと話す気力がなかった。


「……あとでいいか」


 そう呟いて、資料をスクロールする。仕事をしていれば、時間は勝手に進んでくれる。感情を置き去りにしたままでも。


 周囲では椅子が引かれる音や、雑談が始まっていた。楽しそうな声が、今日は少しだけ遠い。


「美咲さん」


 また、隣から声がする。


 顔を上げると、高橋さんが立っていた。今度はマグカップではなく、コンビニの袋を持っている。


「昼、行かないんですか」


「……あ、行きます」


 反射的に答えてしまった。断る理由を考える前に、言葉が出た。


 二人でエレベーターに乗る。沈黙が落ちるが、気まずさはなかった。無理に埋めなくていい沈黙は、こんなにも楽なんだと初めて知る。


 近くの定食屋に入る。いつもの店、いつもの席。メニューも見ずに日替わりを頼む。


「……最近、忙しいですか」


 高橋さんが、箸を割りながら言った。


「いえ、特別には」


「そうですか」


 それで会話は終わった。

 詮索しない、踏み込まない。それが彼の距離感らしい。


 食事の味は、よくわからなかった。ただ、口に運ぶ動作を繰り返していると、不思議と呼吸が整っていく。


「美咲さん」


 ふいに名前を呼ばれ、顔を上げる。


「無理しないでくださいね」


 それだけだった。

 理由も、説明も、続きもない。


 胸の奥が、きゅっと縮む。

 優しさを向けられると、壊れそうになるから怖い。


「……はい」


 短く答えて、目を伏せた。


 午後の業務は、午前中よりも集中できた。細かい確認作業を一つずつ片付けていくうちに、頭の中の雑音が少しずつ減っていく。


 仕事は、裏切らない。

 やった分だけ、進む。感情とは違って。


 夕方、会議資料をまとめ終えた頃には、外は薄暗くなっていた。


「これ、今日中で大丈夫です」


 そう言って資料を提出すると、上司は満足そうに頷いた。


「助かるよ。ありがとう」


 その一言で、肩の力が抜ける。

 ちゃんと役に立てている。その事実が、今は何よりも支えだった。


 退社時間になっても、私はすぐに立ち上がれなかった。家に帰れば、一人だ。静かな部屋で、考えてしまう。


 その時、隣の席から椅子を引く音がした。


「今日は、このあと用事ありますか」


 高橋さんが、カバンを持って立っている。


「いえ、特には……」


「よかったら、駅まで一緒にどうですか」


 断る理由はなかった。


 夕方の風は冷たく、頬に心地よい。並んで歩く距離は近すぎず、遠すぎない。


「仕事、好きですか」


 唐突な質問に、少し考える。


「……嫌いじゃないです」


「それ、いいと思います」


 それだけ言って、彼は歩調を合わせた。


 駅の改札前で立ち止まる。


「では、また明日」


「はい。また明日」


 別れ際、胸に残ったのは寂しさではなかった。

 明日も来ていい場所がある、という安心感。


 失恋は、まだ癒えていない。

 でも、職場は逃げ場になってくれている。


 私は今日も、ちゃんと帰路についていた。


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