失恋の翌日も、出社する
目覚まし時計の音が鳴った。
それは昨日までと同じ、聞き慣れた電子音だった。
止めるまでに三回、指が震えた。寝不足のせいだと思いたかったが、違う。昨夜、ほとんど眠れなかったからだ。布団に横になって目を閉じても、頭の中には一つの言葉だけが浮かんでいた。
別れよう。
それ以上の説明はなかった。
理由も、謝罪も、未来の話も。
スマートフォンの画面には、短いメッセージだけが残っている。既読はついていない。送信したのは、たったそれだけで終わらせるつもりだったのだろう。
泣けなかった。
声を上げて泣くほどの感情は、どこかに置き忘れてきてしまったみたいだった。
カーテンを開けると、朝の光が部屋に差し込む。いつも通りの天気。いつも通りの朝。世界は何一つ、変わっていない。
ベッドから起き上がり、洗面所で顔を洗う。鏡に映る自分は、思ったより普通だった。目は少し腫れているけれど、致命的ではない。
「……行かなきゃ」
小さく呟いて、歯を磨く。
会社は休めない。締切は待ってくれないし、代わりもいない。失恋を理由に欠勤するほど、私は器用じゃなかった。
スーツに袖を通し、髪をまとめる。いつもと同じ身支度。いつもと同じ通勤鞄。玄関を出る瞬間だけ、少しだけ足が止まった。
行きたくない、という気持ちではない。
ただ、昨日までの自分が、もうどこにもいない気がしただけだ。
通勤電車は混んでいた。肩と肩がぶつかり合う車内で、私は吊り革を握りながら、ぼんやりと窓の外を眺める。広告も、アナウンスも、すべてが遠い。
胸の奥に、小さな穴が空いている。
そこから何かが抜け落ちたまま、塞がらない。
会社に着くと、エレベーターの鏡に映る自分を一瞬だけ確認した。大丈夫。ちゃんとしてる。そう自分に言い聞かせて、オフィスのフロアへ向かう。
「おはようございます」
挨拶は、驚くほど自然に出た。
同僚たちも、いつも通りに返してくれる。誰も、私の中で何かが終わったことなんて知らない。
デスクに座り、パソコンを立ち上げる。メールを確認し、今日のタスクを整理する。キーボードを打つ指が、少しだけ遅い。それでも、仕事は進む。
仕事をしている間だけ、考えなくて済む。
彼の顔も、声も、最後の言葉も。
「……あれ?」
資料を確認していると、数値が合わないことに気づいた。単純な入力ミスだった。こんなミス、普段ならしない。
画面を見つめたまま、息を整える。
大丈夫。やり直せばいい。それだけのこと。
「珍しいですね」
ふいに、隣から声がした。
顔を上げると、同じ部署の高橋さんが立っていた。手にはマグカップ。表情はいつも通りで、特別な色はない。
「今朝、ちょっとぼんやりしてるみたいだったので」
「……そうですか?」
「ええ」
それ以上、何も言わなかった。
慰めも、心配も、踏み込んだ質問もない。
それが、少しだけ救いだった。
「ありがとうございます。気をつけます」
そう返すと、高橋さんは小さく頷いて自分の席に戻っていった。
胸の奥が、ほんの少しだけ、緩む。
理由はわからない。ただ、何も聞かれなかったことが、ありがたかった。
失恋は、まだ終わっていない。
でも、仕事は続く。
私は今日も、出社している。




