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失恋の翌日も、出社する  作者: 朝倉 ひより


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1/7

失恋の翌日も、出社する

 目覚まし時計の音が鳴った。

 それは昨日までと同じ、聞き慣れた電子音だった。


 止めるまでに三回、指が震えた。寝不足のせいだと思いたかったが、違う。昨夜、ほとんど眠れなかったからだ。布団に横になって目を閉じても、頭の中には一つの言葉だけが浮かんでいた。


 別れよう。


 それ以上の説明はなかった。

 理由も、謝罪も、未来の話も。


 スマートフォンの画面には、短いメッセージだけが残っている。既読はついていない。送信したのは、たったそれだけで終わらせるつもりだったのだろう。


 泣けなかった。

 声を上げて泣くほどの感情は、どこかに置き忘れてきてしまったみたいだった。


 カーテンを開けると、朝の光が部屋に差し込む。いつも通りの天気。いつも通りの朝。世界は何一つ、変わっていない。


 ベッドから起き上がり、洗面所で顔を洗う。鏡に映る自分は、思ったより普通だった。目は少し腫れているけれど、致命的ではない。


「……行かなきゃ」


 小さく呟いて、歯を磨く。

 会社は休めない。締切は待ってくれないし、代わりもいない。失恋を理由に欠勤するほど、私は器用じゃなかった。


 スーツに袖を通し、髪をまとめる。いつもと同じ身支度。いつもと同じ通勤鞄。玄関を出る瞬間だけ、少しだけ足が止まった。


 行きたくない、という気持ちではない。

 ただ、昨日までの自分が、もうどこにもいない気がしただけだ。


 通勤電車は混んでいた。肩と肩がぶつかり合う車内で、私は吊り革を握りながら、ぼんやりと窓の外を眺める。広告も、アナウンスも、すべてが遠い。


 胸の奥に、小さな穴が空いている。

 そこから何かが抜け落ちたまま、塞がらない。


 会社に着くと、エレベーターの鏡に映る自分を一瞬だけ確認した。大丈夫。ちゃんとしてる。そう自分に言い聞かせて、オフィスのフロアへ向かう。


「おはようございます」


 挨拶は、驚くほど自然に出た。

 同僚たちも、いつも通りに返してくれる。誰も、私の中で何かが終わったことなんて知らない。


 デスクに座り、パソコンを立ち上げる。メールを確認し、今日のタスクを整理する。キーボードを打つ指が、少しだけ遅い。それでも、仕事は進む。


 仕事をしている間だけ、考えなくて済む。

 彼の顔も、声も、最後の言葉も。


「……あれ?」


 資料を確認していると、数値が合わないことに気づいた。単純な入力ミスだった。こんなミス、普段ならしない。


 画面を見つめたまま、息を整える。

 大丈夫。やり直せばいい。それだけのこと。


「珍しいですね」


 ふいに、隣から声がした。


 顔を上げると、同じ部署の高橋さんが立っていた。手にはマグカップ。表情はいつも通りで、特別な色はない。


「今朝、ちょっとぼんやりしてるみたいだったので」


「……そうですか?」


「ええ」


 それ以上、何も言わなかった。

 慰めも、心配も、踏み込んだ質問もない。


 それが、少しだけ救いだった。


「ありがとうございます。気をつけます」


 そう返すと、高橋さんは小さく頷いて自分の席に戻っていった。


 胸の奥が、ほんの少しだけ、緩む。

 理由はわからない。ただ、何も聞かれなかったことが、ありがたかった。


 失恋は、まだ終わっていない。

 でも、仕事は続く。


 私は今日も、出社している。


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