第5章 失われたもの
30人を見送った後、食料事情は改善された。それでも一人当たりの配給量は減らすしかなかったが、栄養状態は問題なかった。
医師の田所も「このペースなら365日は十分可能」と太鼓判を押した。
しかし俺の予想に反して、避難所の機能は徐々に低下していった。
まず気づいたのは、清掃の問題だった。
田村老人は毎朝6時に起き、車椅子で避難所内を回ってゴミを拾っていた。
「リハビリだ」「体を動かさないと筋力が落ちる」と笑いながら。彼がいなくなると、廊下の隅に細かいゴミが蓄積され始めた。
次に、人間関係の潤滑油が失われた。
佐々木花子は元教師で、住民同士の小さな諍いを仲裁するのが得意だった。「まあまあ」「お互い様でしょう」と笑顔で割って入り、険悪な空気を和らげてくれていた。
彼女がいなくなると、些細な問題が大きな対立に発展するようになった。食料の配分で「あの人の方が多い」という不満、当番の割り当てで「不公平だ」という文句。以前なら花子さんが「みんな大変なのよ」と諫めて収まっていたトラブルが、長時間のいがみ合いに発展した。
高木のような癌患者も、実は重要な役割を果たしていた。彼は痛みと闘いながらも、若い住民たちの相談相手になっていた。「俺だって辛い時があるけどな」「でも生きてりゃいいこともあるさ」彼の人生経験に基づく言葉は、シェルターという閉鎖空間に悩む若者たちの心の支えだった。
松井おばあちゃんは子供たちの面倒を見ていた。勉強を教え、昔話を聞かせ、時には叱り、時には慰めてくれた。彼女がいなくなると、明日香を含む子供たちが情緒不安定になった。
ポイント制で価値が低いと判断した人間達が、実は避難所の人間らしさを支えていたのだ。
効率だけを求めた結果、コミュニティから温かさが失われていく。
数字上は完璧だったはずなのに、避難所の雰囲気は殺伐としていった。
食料はある。医療体制も整っている。技術者もいる。でも、みんなの表情が暗い。会話が減った。笑い声が聞こえなくなった。
そして追放から三ヶ月が経った頃、避難所の問題はさらに深刻化していた。
「発電機の調子が悪いんです」
技術者の一人、井上が報告に来た。
「修理は可能ですか?」
「それが...田村さんがいれば簡単だったんですが...」
田村老人?俺は驚いた。彼は元会社員で、技術者ではなかったはずだ。
「田村さんは若い頃、町工場で働いていたんです。発電機の基本的なメンテナンスは彼に聞くことも多かったんです」
俺は愕然とした。「元会社員」として低く評価していたが、実際は貴重な技術を持っていたのだ。
「マニュアルはありますが、実際の細かい調整となると...彼に頼っていた部分が大きくて」
他にも問題は続出した。
佐々木花子は元教師だったが、実は裁縫も得意だった。住民の服の補修を一手に引き受けていた。彼女がいなくなると、破れた服やほつれたシーツが蓄積されていく。
「誰かやってくれ」と頼んでも、「他に仕事がある」と断られる。技術者もエンジニアも、針と糸は扱えなかった。
松井おばあちゃんは避難所では主に子供の世話をしていた。しかし彼女の本当の価値は、「記憶」だった。
「あの人は確かこんなアレルギーがあった」
「この子は夜中に悪夢を見やすい」
「あの家族はこういう事情がある」
長年の経験で培った観察力と記憶力で、住民一人一人の細かい情報を把握していた。彼女がいなくなると、そうした「見えない情報」も失われた。
俺はようやく気づいた。
ポイント制で評価したのは、「職業」や「技能」という表面的な部分だけだった。でも人間の価値は、そんな単純なものではない。
長年の人生経験、人間関係の調整能力、細やかな気配り、そして何より、その人がいることで生まれる温かさ。
そうした一面から目をそらし、俺は全て切り捨ててしまった。
そういった数値化できない価値が、実は共同体にとって最も重要な要素だったのだ。
深刻な変化は、子供たちにも現れていた。
明日香を含む子供たちは、以前のような無邪気に笑うことが減っていた。
松井おばあちゃんは毎晩、子供たちに絵本を読んでくれていた。「桃太郎」「シンデレラ」「白雪姫」。子供たちはその時間を楽しみにしていた。
彼女がいなくなると、その役割を誰も引き継がなかった。みんな「忙しい」「重要な仕事がある」と言い訳した。
でも本当は、誰も松井おばあちゃんのような優しさで子供たちに接することができなかったのだ。
子供たちは、大人たちの変化も感じていた。
以前は住民同士が和気あいあいと話していたのに、今は必要最小限の会話しかしない。食堂でも、みんな黙々と食事をして、すぐに解散する。
「なんで大人たちは笑わなくなったの?」
8歳の京子ちゃんが明日香に聞いていた。
「みんな疲れてるのかな」
明日香はそう答えたが、彼女自身もその理由を本当は分かっていた。
30人もの人間が居なくなったから。みんなが死んだから。
子供たちも、その重さを感じていた。
ある夜、明日香が一人で泣いているのを見つけた。
「どうした?」
「パパ、おじいちゃんたちはもう帰ってこないの?」
「...分からない」
俺は本当のことを言えなかった。30人は死んだ。田村老人も、花子さんも、高木も、松井おばあちゃんも。みんな死んだ。
「私のせいで、みんな死んじゃったの?」
明日香の言葉が俺の心を貫いた。
彼女も気づいていたのだ。自分たちが生きるために、30人が死んだことを。11歳の少女が、その重荷を背負おうとしていることを。
「そうじゃない」
俺は娘を抱きしめた。
「そうじゃないんだ…」
でも明日香は首を振った。
「違うよ、パパ。私が生きてるから、ママが死んだんでしょ?私が居なかったら、みんなは死ななかったんでしょ?」
俺は娘を抱きしめた。
「明日香、違うんだ…。ママも…おじいちゃん達もきみのために死んだんじゃない。みんなのためを思ってのことなんだ」
「でも…」
「明日香のせいじゃない。大丈夫……大丈夫だ」
明日香は小さく頷いた。
でも、その重荷を11歳の少女が背負うのはあまりにも重すぎた。
他の子供たちも同様だった。松井おばあちゃんに可愛がられていた子供たちは、彼女の死をどう受け止めていいか分からずにいた。
「なんでおばあちゃんは死んじゃったの?」
8歳の子供が大人に聞いても、誰も答えられなかった。
「みんなが生きるためだよ」と説明しても、子供には理解しきれない。ただ、大好きなおばあちゃんがいなくなったという事実だけが残った。
子供たちは、大人たちの重苦しい雰囲気を敏感に感じ取っていた。無邪気に笑うことが申し訳ないような気持ちになり、遊ぶことさえ躊躇するようになった。
これは俺が望んだ結果ではなかった。子供たちを守るために始めた選択が、結果的に子供たちの心を傷つけていた。
俺の合理主義は、人間の本質を見誤っていた。
効率だけを追求した結果、人間らしさが失われた。数字では成功だが、精神的には失敗だった。
30人の犠牲は、俺にその真実を教えてくれた。しかし、その代価はあまりにも大きすぎた。