ひぐらしの追憶
かなかなかな、かなかなかな。
夕暮れ時に響く声は、なぜ、こんなにも哀しいのだろう。
何かを訴えるような声は、なぜ、こんなにも永い別れを想起させるのだろう。
…
あいつとの出会いがいつだったのか、今もよく覚えていない。
近所の祭りで一緒に遊んだだか、同じ塾に行っていただったか、時系列が有耶無耶になって、もうどれだったのか見当もつかない。
ただ一つ、確かだったのは、あいつは俺を好きじゃなかったという事だ。
…
真夏の日、塾の帰り道。
俺たちは、電車でその塾まで通っていた。
でもあいつはその日、帰りの電車に乗ろうとしなかった。
俺たちを乗せるはずだった電車の扉が閉まってから、やっと俺が口を開いた。
「おい、電車行っちゃったじゃんかよ、どうすんだよ。」
「帰りたくない。」
「え?」
「帰りたくない。帰ったらまた殴られる。こんなに金を使ったのになんで学力がつかないんだって。」
あいつは、もう誰もいなくなった駅のホームを背に俺を見つめた。
「付いてきて。今日一日だけでいいから。」
憎たらしいことに、俺はその時、非日常に飛び出せるような期待でわくわくして、その悪魔の誘いを了承した。
本当に憎たらしい。今思うと。
俺たちは陸橋を渡り、反対方向に向かうホームへと下りてきた。
二つ三つ、ライトが光らなくなっている電光掲示板を見上げると、次来る電車にはまだ二十分くらいの時間があった。
ところどころに鳥の糞がへばりついた長いベンチに、あいつは躊躇なく座り、俺が座るのも待たずに話し出した。
「私ね、アイスクリームが食べたかったの。」
「え?」
「最近、暑いでしょ?イチゴ味のアイスクリームが食べたくなったの。」
あいつは足を組みなおして、大きくため息をついた。まるで大人ぶってるみたいに。
「そしたらママ、なんて言ったと思う?金と時間の無駄だって。自分は一日一個ぐらい食べてるのに。」
「そんなに食べたいなら、親が見てないときに盗み食いすりゃいいじゃん。」
「そういう話じゃないじゃん…って言うかそれが通じるなら苦労してないし。とにかく。」
あいつは鞄を下ろして、天を仰ぎ見た。
「今日返ってきた模試の結果。あれだけは見られたらダメ。」
「ダメって…じゃあどうすんのさ。」
「逃げれるとこまで逃げてみる。どうせ…」
あいつがあいつが何かを言おうとした刹那、俺のキッズ携帯が耳障りな音を奏でた。
多少の苛立ちを覚えつつ、受信のボタンに手を伸ばす。
「もしもし?今日の帰りいつ?」
「あー、今日友達に誘われて遊びに行くからちょっと遅くなる。」
「友達はいつまで居れるって?」
俺は耳に押し当てていた電話を離し、あいつに小声で、いつまで、と尋ねる。
あいつは7時までって言っといて、とまた小声で返す。
「7時までって。」
「そう。迎えに行く時間になったら電話して。」
電話の主は、落ち着いてそれだけ告げるとぶつりと声を途切れさせた。
「なんて?」
「帰る時になったら連絡しろって。」
「そう…それで。」
とまたあいつが口を開いたタイミングで、今度はあいつの携帯が叫び声を上げた。
立て続けに会話を邪魔されたのが少しおかしくて、互いに見合って少し口角を上げた。
「もしもし。いつもより遅くなるなら連絡してって言ったよね。守る気ないの?」
「ごめんなさい、今友達といます。」
「はぁ…帰ったら反省文ね。で、友達の親御さんはいつまで居ていいって?」
「7時までです。6時半には帰ります。」
「6時半を少しでも過ぎたらまた警察呼ぶからね。」
「はい。もう切っても大丈夫でしょうか。」
「…反省文1枚追加ね。また連絡しなさい。」
あいつの持つ携帯が沈黙し、ただの金属板になったのを確認して、どちらともなく、また大きく溜め息をついた。
それから電車が来るまでは、何を話したかあまり覚えていない。
電車に乗ってからもそうだ。
ただ、あいつが何か言って、それに俺が適当に返すのを何回か繰り返した気がする。
地方線の終点駅は、上りが大都会で、下りがど田舎である事が多い。
俺達が降りたのは、後者だった。
あたりを見回しても山ばかりで、民家なんて見当たりやしない。
なぜこんなところに駅を作ったのか、なぜここを最終駅にしたのかという疑問が湧いて出てくるような立地だった。
夕飯時にそんな場所で降りるような頭のイカれた奴が俺達以外に居るはずもなく、十五分と経たない内に、駅は静寂に包まれた。
夕暮れ時、空のすべてが赤いグラデーションに変わる時、俺達は駅のホームに立っていた。
山が右側にかけて広がり、遠くには海が広がり、赤い光がそこらかしこに漂っている。
かなかなかな、かなかなかな。
辺りにはひぐらしの声が響いていた。
まず第一に、美しいという感想が飛び出すその光景に、俺はひどく歪な、重圧とも言えるものを感じたのを覚えている。
俺とあいつは、空からオレンジ色が消えるまで、ずっとそうやって景色を眺めていた。
あいつの電話がせっつくように震えていても、変わらずにずっと眺めていた。
やがて、新しく入ってきた電車の音が、俺達と風景とを切り離した。
電車の行き先が、回送ではない何かを表示したのを確認して、あいつは何も言わずに電車に乗り込んだ。
俺も、何も言わずに後に続いた。
日常の延長線上の、奇妙な冒険が終わってしまうような気がして、少し胸が灼けたような感じがした。
空に白い粒々が輝き出してからしばらくして、電車のドアが閉まった。
トンネルをいくつか抜けて、市街地の明かりが窓に映りこむ頃、あいつがまた口を開いた。
「私ね、このまま警察とかからも逃げ切って、都会で暮らそうと思う。」
「住む場所も食べるものも無いのに?」
「住む場所は…しばらくは無くても何とかなるでしょ。食費は身体でも売って稼げばいいし。」
「身体は売っちゃダメだよ。そんな事して欲しくないもん。」
「そう言うと思った。」
あいつは半笑いでそう言って、それに俺が何も返せなかったのを馬鹿にするように、窓の外に目線を落とした。
電車はどんどん景色を飛ばし、また見知った所へと戻ってきた。
あいつが腰を上げて外に出たのは、塾の最寄り駅だった。
あいつは改札に向かうことはなく、近くのベンチへと座った。
「お金持ってる?」
「多分千円ぐらいは持ってるよ。」
「それじゃ、アイスクリームぐらいは買えるね。」
あいつは俺の千円を持って、駅備え付けの、アイス専用の自販機へと向かい、ストロベリーアイスのボタンを2回押した。
「はい、これ。」
「くれるの?」
「くれるのも何も、あなたのお金でしょう。私一人で食べるのもなんだし。」
そう言って、あいつと俺はベンチに戻った。
互いに何も言わずに食べた。
棒状のアイスは見る間に短くなり、そうと経たない内に、白いプラスチックの棒だけになった。
あいつが不意に立ち上がった。
ベンチの上に、プラスチックの棒と自分が持っていた荷物を置いたまま。
「どこ行くの?」
「ごめんね、アイス美味しかった。」
「どういうこと?」
あいつが、線路に向かって走り出した。
器用に、こちらを向いたまま。
警笛の音が鳴り響く。
だめだ、それは、ダメだ。
やめてくれ。
頼む。
あいつの顔は、やっぱり綺麗だった。
あいつーーお前があの肉塊と同じ物だったなんて、今でも信じる気が起きない。
俺が止めていれば死んでいなかったとピーピーうるさい肉塊、一応はあいつの両親という肩書きは、昨日買った新車で、ついさっき跳ね飛ばしてやった。
俺はあいつに付いて行かなければ良かったのか?
千円札を強引にでももぎ取れば良かったのか?
なぁ、お前はもう墓石じゃなくて良いだろ。
頼むから喋ってくれよ。
俺はどうするべきだったんだ。
なぁ。
頼むよ。




