詩集「無形の手紙たち」
詩集「無形の手紙たち」
モノローグ 旅せぬ人
私は旅人ではない。
どこかを目指すことも、
始まりと終わりをたどることもない。
私は、ここにいる。
「今」という名の地平に、静かに腰を下ろし、
ただ存在する。
私にとって人生は、この場所に一度きり咲く花。
見上げれば空、閉じれば内なる空。
空たちは、ただそこにある。
時が流れようとも、
私は動かず、消えず、この「今」に宿る。
私は旅人ではない。
私は漂流者でもない。
私は──ただ、ここにいる。
それでいい。それで、すべてだ。
ねえ、きみ
ねえ、きみ
ボクを待たなくてもいいよ
並んでいても
一緒に歩いてるわけじゃない
ねえ、きみ
きみはやさしいね
でも、ボクを待たなくてもいいよ
ボクはもう歩かなくてもいいんだ
ねえ、きみ
ずいぶん離れたね
もう見えない
でもありがとう
楽しかったよ
楽しかった
誰かが弾いていた
誰かが 望み を弾いていた
きっと優しい人なんだろう
私は歩み続けた
聞こえなくなるまで
誰かが 昔 を弾いていた
きっと可愛い人なんだろう
私は歩み続けた
聞こえなくなるまで
誰かが 思いやり を弾いていた
きっと楽しい人なんだろう
私は歩みを止めなかった
何も聞こえなくなるまで
私が残してきた刻は
一、私が残してきた刻は
私が残して来た刻は
いまどこにいるのだろう
見知らぬ海をわたっているといいな
知られざる森の奥で囁いているといいな
遥かな星の光に溶けているといいな
私が残して来た刻は
いまどこにいるのだろう
誰も踏まぬ砂漠の影に眠っているといいな
遠い潮騒の彼方で響いているといいな
風の行方を知る鳥の翼に乗っているといいな
二、私が残してきた声は
私が残してきた声は
いまどこに響いているのだろう
誰かの夢のなかでささやいているといいな
古い蓄音機の針の先にふれているといいな
朝の霧のなかでまだ迷っているといいな
私が残してきた声は
いまどこに響いているのだろう
誰かの胸の鼓動にわずかに重なっているといいな
遠い故郷の風に乗り誰かの耳に届いているといいな
三、私が残してきた願いは
私が残してきた願いは
いまどこに眠っているのだろう
消えた星座のなかで瞬いているといいな
忘れられた祈りの片隅で光っているといいな
誰かの瞼の裏で、あたたかく震えているといいな
私が残してきた願いは
いまどこに眠っているのだろう
閉じられた本の最後の行に宿っているといいな
真夜中の風鈴の音に乗って揺れているといいな
四、私が残してきた夢は
私が残してきた夢は、
いまどこを彷徨っているのだろう
誰かの子守唄に紛れて眠っているといいな
あの日の午後の空に浮かんでいるといいな
目を閉じたとき、ふと現れてくれるといいな
私が残してきた夢は、
いまどこを彷徨っているのだろう
朝露にきらめく蜘蛛の糸に、そっと絡まっているといいな
流れ星のあとを追ってどこまでも旅しているといいな
五、私が残してきた名前は
私が残してきた名前は
いま誰の記憶にあるのだろう
呼ばれなくなったその響きが
まだ誰かの心をあたためているといいな
封筒の裏に書かれた文字が
そっと引き出しの奥で眠っているといいな
私のしあわせ
私は悲しいのだろうか
水に聞いてみた
私は嬉しいのだろうか
空に聞いてみた
私は苦しいのだろうか
歌に聞いてみた
答えはいつもあるはずなのに
私をすり抜けていく
喜びはどこにあるのか
木漏れ日に聞いてみた
心の痛みはどこへ行くのか
夕暮れの風に聞いてみた
私は何を求めているのか
ときめきに聞いてみた
答えはいつもあるはずなのに
私をすり抜けていく
私は戻ってもいいのだろうか
私は変わってもいいのだろうか
私は孵ってもいいのだろうか
誰に聞こうか
風解けの思い
風解けの思い
それは青
それとも茶色
それはふわっと転んで
また飛んだ
風解けの思い
それは朝
それとも夕暮れ
それは何故に乗って
また飛んだ
風解けの思い
それはぬくもり
それともすれ違い
それはくるっと回って
ほほえんだ
風解けの思い
それは今
やっぱり今
いつの間にか消えてった
無形の手紙たち
一、風が運ぶもの
風はなにを運ぶのか
昨日の思い出か
明日の悲しみか
誰かの笑いがほどけて
午後の光にまぎれこむ
歩道の落ち葉がひとつ
ふと 宙に浮かぶとき
それは手紙かもしれない
まだ書かれぬ言葉たちが
風のなかで かすかに
宛先を探している
ふりむく者はおらず
追いつけぬまま夜がくる
風はただ なにも言わず
ポケットの中をすり抜ける
昨日の面影か
明日の静けさか
それとも
今日という名前の
見えない誰かのための祈りだろうか