『仕事だったんですよね?』
金曜日の夜のこと、僕は明日の準備中だった。
「えっと……タオルと、着替えと……絆創膏と、アイシングスプレー…………よしっ」
小さなリュックの前に入れる予定の物をずらりと並べ、一つ一つ確認をしていく。
隣には綺麗に畳まれたジャージ。明日、土曜日は前々から予定していた運動をする日だった。
学校で取り組まれている長距離マラソンですら早々に脱落する僕のことだ、明日は確実に早乙女さんに迷惑を掛けてしまうのは確定だと思う。
ならせめて、道具だけでもたくさん持っていって、不足に備えれるようにしておけば……。
と、いう目論見で色々用意してみた。それらをすべてリュックに詰め込んで…………うん、終わり。
チャックを閉め、少し持ち上げてみる。…………思っていたより重い気がするけれど、まあ……大丈夫でしょ。
さて、これで明日の準備は終わり、後は早めに寝て体力を――
「あれ……早乙女さん?」
スマホが鳴る。液晶を見ると早乙女さんからの着信だった、しかもビデオ通話。
居住まいを正して、髪の毛をちょっと手直しして。通話に出る。
『あ、もしもしー? 五十嵐くん、ただいまー』
電話に出た早乙女さんは、仕事着のままで画面の向こうで手を振っている。
「おかえりなさい早乙女さん。……あれ? なんか顔が赤くないですか?」
ほんのりという感じだけれど、頬が赤く染まっていた。早乙女さんは僕の指摘を受け、両頬に手を添える。
『そうなの、今日はちょっと会社の付き合いでお酒を飲むことになって……あー、手が冷たくて気持ち良い』
火照った頬を冷ましているのか、気持ちよさそうに目を細めていた。
前に会社の飲み会は楽しくないって言っていたけれど、上機嫌な様子を見ていると『本当に楽しくないのかな?』って感じはする。
『もう全っ然楽しくなかったよ? 今楽しそうに見えるのは五十嵐くんと話してるからだし」
そう言われると、少し恥ずかしい。恥ずかしいけれど、ちょっと嬉しい。
でも、飲んじゃってるのに次の日って運動しても大丈夫なのかな? 飲んだこと無いからよくわからないけれど。
『あー……それなんだけどね』
バツの悪そうな表情。
すぐに両手を合わせ、拝むように頭を下げた。
『ごめん! 明日……仕事になっちゃった……!』
「あ……そうなんですね」
残念だけど、以前も僕の部活動で急遽中止にしたこともあるし。仕事と来ればしょうがない。
「じゃあ、また来週にしましょうか?」
『うん……本当にごめんね。お詫びに、私が水飲む所見せよっか?』
なんで? そんな疑問を口にする暇もなく、早乙女さんはペットボトルの蓋を開けて傾けていく。
喉が上下して、嚥下していく様子を見せられ…………何故か僕は声も出さず、その様子を黙って見ていた。
『ぷは…………どう?』
「…………酔ってます?」
『そりゃそうよ! 飲んできたんだし!』
さっきまでほんのりと赤かった顔が、より一層赤みが増した気が……。
今の本当に水だよね? 実はお酒ってことはないよね?
『うん、お水だよ、ほら』
ラベルに書かれているのは自販機でもどこでも売ってあるミネラルウォーターだった。
『あれかな……自宅に帰ってきたのと、五十嵐くんと喋って安心して……お酒、回ってきたのかも』
そう言う早乙女さんの目は、少しとろんと落ちてきていた。
「もう寝ちゃった方がいいですよ。明日も仕事ですし」
『そうだよね~……本当にごめんね』
子どもじゃないんだし、急遽仕事が入ったからって文句なんて言わない。
「大丈夫ですよ。服もちゃんとハンガーに掛けてから寝てくださいね?」
『うん…………おやすみ~……』
そして通話が切れる。
…………さて、週末の予定が丸々空いちゃったわけだけど。
土曜日は運動するでしょ? 日曜日は運動の反動で一日寝てるのが予定だったんだけど……どうしよっかな。
溜まってる本でも読もうかな、それとも……もう一度前に読み切ったやつを読み返す?
どちらにしても、家から一歩は出ないのは確定だった。
………………
…………
……
「その予定……だったんだけどなあ」
朝七時。僕は欠伸をしながら駅前に立っていた。
事の発端は朝六時に掛かってきた着信だった。けたたましく鳴り響くスマホに目を瞑りながら電話に出る、すると。
「買い物に付き合ってくれ、七時に駅前な」
「……せとくん?」
そう、瀬戸くんからのいきなりの呼び出し。
突然の呼び出しには慣れてるけれど、こんなに朝早くは初めてだ。準備もままならなかった僕は、駅近くのガラスの反射で髪を整える。
「ふぁああ…………待たせたな」
整えていると、おっきな欠伸をしながら瀬戸くんがやってきた。
服も裾が出ていたり、靴の踵を踏んでいたり。現在のトレードマークである金髪はボサボサだった。
「二度寝した?」
「したした。遅れるかと思ったぜ」
ガシガシと頭を掻いている瀬戸くんの服を整え、靴もキチンと履かせる。……なんか、こうしてると。
「母親か彼女かって感じだな」
「どっちもやだよ」
彼女にこんなことをさせるのもどうかと思うけどね。……まあ、そんなことより。
「何処行くの?」
「あそこだ」
指を差したのは、駅からあまり離れていない雑居ビル。
階数ごとに様々なテナントが入っていて……。
「……タイマッサージ?」
「ちげえ」
「ブラジリアンヨガ?」
「その上だ」
その上と言うと……。
「カードゲームショップ……」
「そう。今日は人気なカードゲームのスターターキットの発売日でな。金は渡すから、一緒に並んで買ってくれ。一人ワンセットなんだ」
「なるほどね」
つまり瀬戸くんの趣味の矛先がまた変わっていると言うこと。まあ、そのために毎日頑張ってバイトをしてるみたいだけど……。
働いてお金を稼いで、それを趣味に充てたとしても、やめてしまうのはやっぱり勿体ない気がするなあ。
瀬戸くんのお金だから、僕がどうこう言うことでも無いけどね。
「行こうぜ」
「うん」
まあ、今日は予定も無くなったから付き合うのは別にイヤじゃないし。
多趣味な瀬戸くんを見ているのも、自分がその趣味に触れたみたいで楽しいし。
そう軽い気持ちで行ったら、とんでもない人数が並んでいて唖然とする僕だった。
「出遅れたか……」
隣で瀬戸くんがぽそりと呟いたのが聞こえたのだった。
………………
…………
……
「ごめんね瀬戸くん」
「……いいよ」
店を出た後、僕は瀬戸くんに渡されたお金を返しながら平謝り。
少しむくれている彼に対して、僕は謝ることしか出来ない。
「本当にごめん」
並んでいて、開店したまでは良かったけど。
いざ僕が購入する番になった時の店員の一言が、僕の背筋を凍りつかせた。
『このカードを場に出し、更にこのカードを出した時、お客様の残り点数は?』
なにそれ?
ルールを何も知らない僕にとって、その問題は到底答えられるものじゃなくて。黙っていると更に怪しまれて、僕は買うことが出来なかった。
「…………そうだよなぁ、人気コンテンツなんだし、転売対策がされててもおかしくなかったんだよ。なんでそこに気が付かなったのかね俺は……」
「ごめんね」
「いや、今回のことは全面的に俺が悪い。だからお前は気にしなくても…………って、おいあれ」
瀬戸くんの視線を追いかけてみると、そこは駅への入口。休日だからそこそこ人の出入りがあって。
「あれって、お前の友達じゃねーの?」
どれだろう? キョロキョロと探していると、見たことのある背中を見つけた。
何処か見覚えのある服装――遠くからでもわかる綺麗な黒髪。
「……早乙女さん?」
「だよな、あんな大きなカバン持って何処行くんだろな」
「仕事って言ってたけど……」
でも、泊まり用なのかっていうくらいカバンが大きい。
それに……隣を歩いている人は誰だろう。早乙女さんよりも背が高く、スラッとしているのがわかる。
服装はふたりともスーツで、仕事か、もしかして……。
「彼氏とお泊りデートか?」
………………デート。
そうか、彼氏……。居たとしても不思議じゃないよね。
でも、それならそうと言ってほしかった。仕事……なんて嘘じゃなくて。
「……おい、おい大丈夫か?」
そんなに心が狭い男って思われてるのかな。彼氏と出掛けるって言うなら快く送り出すのに。
だって、僕と早乙女さんは――
「おい光!」
「…………え? え、なに、瀬戸くん」
「お前顔色クソ悪いぞ」
……そうかな。
自分ではわからないけれど、なんか胸の中でグルグルしてるのはわかる。
「……帰るか」
「今日はもういいの?」
「ああ」
もう一度駅へと目を向ける。
そこにはもう早乙女さんの背中は無かった。
でも、そう。気にする必要なんてない。僕と早乙女さんは――――ただの友人なんだから。
――――――――――
日曜日の夜のことだった。
「…………もしもし?」
『もしもし? ただいま五十嵐くん!』
暇があれば掛かってきていたビデオ通話。今までなら心躍る時間だったんだけれど……。
今は何処か、苦しい。
『いやー、本当に疲れたよ~。まさか二日間の休日返上で働かされるとはね』
本当に? 週末のデートじゃなくて?
喉からでかかった疑問の言葉を、何とか必死に飲み込んだ。
『……あれ? もしもーし、五十嵐くん?』
「…………仕事だったんですよね?」
『え? うん、そうだけど……?』
早乙女さんがそう言うなら、仕事のはずだ。僕が見た後ろ姿なんて忘れてしまえばいい。
だけど目を閉じればフラッシュバックのように蘇る。男性と一緒に駅へと入っていく背中を。
「ごめんなさい、今日はちょっと体調が悪くて……」
不思議そうにしている早乙女さんを見ていられなくて、僕は目を逸らす。
『五十嵐くん? ちょっと――』
…………切ってしまった。
自分が情けない。僕と早乙女さんはただの友達、年の差だってある。
だから、彼女に彼氏がいても何も問題――――
「…………最低だ、僕」
黒い感情を、泣きそうになりながら溜め息と共に吐き出した。




