父の呪縛
その夜、アイヴァンは穏やかな気持ちで眠りについた。
親善訪問の様子、村の人々の交流やスズの会話を思い返しながら、これまでとは違う新しい世界が自分の目の前に広がっていると感じていた。そして、スズへの想いが胸の中で静かに芽生えていることに気づいた。誰かを想うだけで心が満たされ、幸福を感じるなんて初めてだった。
しかし、スズに惹かれていることに気づいた瞬間、アイヴァンは婚約者であるエセルを思い出して胸が痛くなった。
「自分がこんな感情を抱くなんて……『あの人』と何も変わらないじゃないか」
エセルとの婚約は政略結婚であった。
アイヴァンは彼女の冷たさや高慢な態度に対して辛さを感じていたが、それでも彼は彼女に尽くし続けた。毎回エセルに贈り物を選ぶ際には、彼女が少しでも喜んでくれることを願い、丁寧に時間をかけて選んだ。
エセルの批判に耐え、彼女の機嫌を取るために努力を惜しまなかったのは、貴族として婚約を維持する重要さを理解していたからだった。そして何よりも、アイヴァンは軽蔑すべき父親と同じように冷酷な振る舞いをしたくないという強い思いがあった。
アイヴァンはエセルに対してひたすら尽くし続けたが、彼女の態度は変わらなかった。エセルの冷たい反応に傷つきながらも、彼は彼女の幸福を願っていたのだ。
けれど、王子の命令で仕事を肩代わりする内に会う機会も作れず、そうしている内に彼女は周囲に自分への不満を吹聴していると聞き、アイヴァンの心は折れそうになっていた。
アイヴァンの両親は親同士が決めた政略結婚だった。しかし父が王妃に懸想したまま結婚し、妻を蔑ろにした結果が、今のアイヴァンの家族の姿だった。父は仕事に明け暮れ、母は愛人を囲い、子供たちは互いにしか拠りどころのない愛に飢えた人間に育ってしまった。父のようになりたくはなかった。
アイヴァンは同じ悲劇を繰り返したくなかった。それ故に、スズに心惹かれる己をアイヴァンは許せなかった。
翌朝、アイヴァンと随行員たちは村を出発する準備を整えた。村の人々は朝早くから集まり、別れを惜しみながら見送ってくれた。アイヴァンは村長や村の人々に改めて感謝の言葉を伝え、馬車に乗り込んだ。
リンレイ王女もまた、村の人々に深く礼を言い、温かい笑顔を見せていた。アイヴァンはその姿を見て、彼女が本当に人々に愛される人物であることを再確認した。
馬車が動き出し、村の風景が徐々に遠ざかっていく。アイヴァンは窓から外を見ながら、自分の胸に芽生えた感情を抑え込もうと必死だった。
(私はエセルと婚約している。彼女に対して誠実でなければならない。スズへの想いはただの一時的な感情だ)
そう自分に言い聞かせた。
それでも、スズの笑顔や優しい言葉が頭から離れない。アイヴァンはそのたびに胸が痛むのを感じ、さらに自分を戒め続けたのだった。
次第にアイヴァンの彼女に対する態度が素っ気なくなっていった。それに気づかないスズではない。
「アイヴァンさん、私の仕事に何か不備がありましたか?」
「え?いえ、そのようなことはありませんが……?」
スズはアイヴァンの顔をじっと見つめ、更に問いかける。
「それでは、何故最近、私に対して距離を置かれているように感じるでしょうか?私が何か失礼なことをしたのであれば教えてください」
「貴女は何も悪くない。悪いのは私です」
「アイヴァンさんが?」
「はい。これまでのように貴女と親しく接することで、公私の区別がつかなくなってしまうのではないかと危惧したのです」
「公私の区別?」
「私はサディアス殿下にお仕えする、ヴェリアスタの人間です。この親善訪問を無事成功させることが私の職務です。今後は職務にのみ徹することをお許しください」
それだけ言うと、アイヴァンは頭を下げてスズの前から立ち去った。彼女がどんな顔をしているかなんて考えたくなかった。
アイヴァンはスズとの交流を極力避けるようになった。滞在中の実務を担う責任者と王女の使用人として、二人は完全に無視し合うわけにはいかず、一緒に仕事をする際も必要最小限の言葉で済ませ、見知らぬ人に接するように丁寧な態度を心がけた。スズもアイヴァンの意向を汲んでか、以前ほど親し気な振る舞いをしなくなった。
「大丈夫ですか?お兄様……」
心配そうなフリーダが声をかけて来た。
表情は普段よりも明るく見える。王女の滞在中はサディアス王子の通常業務は免除されているため、ゆっくりと休めたようだ。妃教育も行われているが、彼女にとっては負担になると言うことも無いのだろう。
「あぁ、大丈夫だ」
アイヴァンは妹を安心させるために微笑んで見せたが、内心の憂鬱さを隠しきれなかった。
「私は、お兄様が心配なのです」
フリーダは優しく言葉を続ける。
「王女殿下の御世話役としてのお仕事は忙しいでしょうに、とても楽しそうに見えましたのに、急に元気がなくなってしまったように感じます。何かありましたか?」
恋に浮かれていたことも気づかれていたのかと驚くのと同時に、妹の鋭さにアイヴァンは改めて感心した。
「大したことではない。ただ少し疲れているだけだ」
「……無理はしないでくださいね。私にできることがあれば、何でもおっしゃってくださいね」
納得はしていないようだが、しつこく問い詰められることはなかった。
言えるはずなど無かった。父親のように婚約者ではない女性に恋焦がれているなどと。そんなことを話せば、きっとフリーダは兄を軽蔑するだろう。最愛の妹に見限られるなど想像するだけで耐えられそうになかった。
「間もなく王女一行も帰国される。そうなればすぐに元に戻るだけだ」
全てが元通り。スズも王女達と共に帰っていく。そしてまた執務室に籠ってフリーダと二人、サディアス王子の仕事を肩代わりする日々が始まるだけなのだ。