王女の本心
元々仕事をしていないのだから、王子不在でも特に問題はない。
鬼燈国の人々はヴェリアスタ王国の内情に気づいているというのは厄介なことではあるが、ヴェリアスタ側の人間が減ることで、アイヴァンには仕事がしやすくなった。
夜明けに出発し、到着は昼になる予定だった。村に到着すると、リンレイ王女と随行員たちは村人たちから温かい歓迎を受け、交流を楽しんだ。
するとリンレイ王女は村人たちに声をかけたのだ。
「見事な小麦畑だ。穂がしっかりと実っていて、今年は豊作となりそうだな」
王女の声は落ち着いた低音で、心に響くような深みがある。
「どの作物を見ても、貴方がたの努力が伺えるものばかりだ」
村人たちは、王女に直接声を掛けられるとは思っていなかったので驚き、更に称賛の言葉と気さくな態度に感激していた。喜びで話し始める村人たちに、王女は嫌がる様子もなく、一人一人の話に耳を傾け、笑い声を上げている。
その様子を見て、アイヴァンは驚きを隠せなかった。これまでリンレイ王女はサディアス王子や国王と話す時は通訳を通していたため、彼女は共通語を話せないと思われていたからだ。
「本当に、話したくなったのか……?」
まさかスズが言った通り、王女がヴェリアスタの王族と会話をしたくなくて通訳を使っていたのだろうか。それならば、この親善訪問の意味とは何なのだろうか。
更に王女が農作業を手伝う姿を見て、また驚いた。彼女が村人たちに混じって手を汚しながら作業する姿は、単なる王族のパフォーマンスではなく、本物の関心と誠意を感じさせた。
自分たちの主君であるサディアス王子は、恐らく彼女のような行動は取らないだろうと思うと、アイヴァンは憂鬱な気分になった。アイヴァンは溜息を吐きながら、王女の行動と自分の主君の違いに思いを馳せたのだった。
その日は村に一泊し、朝に王都へと戻る予定となっている。
夕方になると、一行は村の広場で開かれた歓迎の宴で招かれた。アイヴァンもまた、その場で村の人々と共に食事を楽しみ、心からの歓待に感謝の意を示した。
宴が終わり、村長がアイヴァンの下にやって来た。彼は深々と頭を下げる。
「ソーンヒル様、この度は本当にありがとうございました」
礼を言われた理由が思い当たらず、アイヴァンはすぐに返すことはできなかった。
「他国の王女殿下が、このような何も無い農村を訪れてくださるとは、村民一同感激しております。貴方様のお陰でこの訪問が実現したことを、心から感謝申し上げます」
確かにこの村は観光地ではない。だが、実はアイヴァンがここを選んだのには理由があった。この農村の風景や人々を描いた絵が王都で密かに人気を集めていることを知っていたからだ。素朴で穏やかな、どこか懐かしい雰囲気が王国の人々の心を打ったのだろう。アイヴァンもまた、その絵に描かれた風景を実際に見たいと思っていて、仕事にかこつけて訪問先に選んだのだった。
「ありがとうございます、村長。ですが、全てはサディアス王子殿下の差配のお陰です。それに、この村の風景や人々が素晴らしいからこそ、訪問先として選ばれたのだと思います。私もこの美しさに感動しております」
その言葉に村長は微笑み、更に深く頭を下げた。
「それでも、貴方様の御尽力に感謝しております。またいつでも遊びにいらしてください」
アイヴァンは村長に礼を言い、心温まる言葉に感謝しつつ、広場から離れた。
村の静かな夜風が心地よく、アイヴァンは立ち止まって夜空を見上げた。星々が輝き、広がる田畑が薄明かりに照らされていた。
その時、スズがそっと近づいてきた。彼女はいつものように優しい微笑みを浮かべていた。
「アイヴァンさん、今日はお疲れさまでした。王女殿下も御喜びでしたし、村の人たちもとても喜んでいましたね」
「ありがとう、スズ。鬼燈国の方たちにも色々と助けられたよ」
スズは頷き、アイヴァンの隣に並んで夜空を見上げた。
「素朴で美しい村ですね。ここが選ばれた理由が分かる気がします」
「実はこの村の風景を描いた絵が王都で人気なんだ。それを見て、どうしても実物を見たくてね」
スズは一瞬驚いた後、
「意外とちゃっかりしてるんだなと思ったら、何だかおかしくて」
そう言ってスズは笑ったのだ。アイヴァンもその笑顔に釣られて笑い返した。
「そうかもしれない。だが、実際に来てみて本当に良かったと思ってるよ。この村の美しさや人々の温かさを実感できたから」
「そうですね。本当に素敵な場所です」
二人はしばらくの間、静かに星空を眺めていた。
アイヴァンは少し戸惑いながらも、心の内を打ち明けることを決めた。
「実は、この親善訪問が始まってから、何だかこれまでと違うんだ。私は何一つ変わっていないのに、鬼燈国の方々が親しくしてくださったり、村の人々からも温かい言葉をもらえたり……」
アイヴァンは視線を地面に落とし、静かに続ける。
「これまで、誰かと親しくなることなんてほとんどなかった。誰からも信頼されず、認められることもなかった。それが急に変わったような気がして、戸惑ってる。でも同時に、とても嬉しいんだ。私の行いが認められることなんて一度もなかったから……」
スズは真剣に耳を傾け、優しい眼差しを向けた。
「アイヴァンさん。私たちや村の人たちは貴方を先入観なしに見てるんです。ただ本当の貴方の姿を見て、皆が自然と信頼を寄せるようになったんですよ」
自分が真摯に取り組んできたことを、誰かが理解してくれるという安心感が胸に静かに広がっていくのを感じた。
「さて、そろそろ休みましょうか。明日も早いですからね」
そして二人は宿泊先へと歩き出した。静かな村の夜道を並んで歩く二人の間には、何とも言えない温かい空気が漂っていた。