報われた努力
一度お互いを認識すると、これまで気づかなかったのが嘘のように行き会う機会が増えた。
ある日の夕方、アイヴァンとスズは次の日の予定を確認していた。その合間に、ふとアイヴァンが問いかけた。
「ところで、スズ嬢。どうして王女殿下は顔を隠して、声も通訳を通しているんだろうか?文化の違いか何かかな?」
鬼燈国とは別の国で、高貴な女性が顔を隠して異性と会話をしないという文化があると聞いたことがある。事前に調べた資料には書かれていなかったが、実際にはそういう文化があるのだろうかと疑問に思っていたのだった。
「うーん、王女が顔と声を隠す理由、ですか……」
しばらく考え込むような仕草を見せた後、スズは微笑みながら言った。
「単にサディアス王子がお嫌いなのでは?」
アイヴァンは驚いて目を見開いた。
「どうしてそんな風に考えるんだ?」
誰かが聞いていないか、アイヴァンは焦りながら周囲を見回した。
動揺するアイヴァンを眺めるスズは、少し悪戯っぽく微笑みながら続ける。
「だって、あの方ったら、アイヴァン様に仕事を押し付けてばかりなんですもの。そういう無責任な方は王女殿下は好きではありませんね」
そのあまりに率直な意見に、アイヴァンは思わず吹き出してしまった。しかし、すぐに主人であるサディアス王子を笑ってしまったことを咳き込んだふりをして誤魔化そうとした。
「あ、いや、そんなことは……」
「やっと笑ってくださった」
その言葉にアイヴァンは一瞬驚き、次いで照れくさそうに微笑み返した。
「君のお陰で少し楽になったよ、スズ嬢」
「そんな……お礼を言われるほど大したことはしていませんよ」
実はアイヴァンは日中にサディアス王子たちが鬼燈国の人々への陰口や下卑た話をしているのを聞かされ、気が滅入っていたのだ。彼女はアイヴァンの様子がいつもと違うことに気づいて、少しでも元気づけようとしてくれたのだった。
スズは彼の笑顔を見て、ふと真剣な表情になった。
「アイヴァン様、そんなにかしこまらないでください。私のことはスズと呼んでください。もっと仲良くなりたいんです」
アイヴァンは再び驚いたが、少し戸惑いながら答えた。
「スズ、さん……?」
呼んでみたものの、スズは首を横に振る。
「いいえ、私の方が年下なのですから、呼び捨てでお願いします」
アイヴァンは家族や婚約者以外の女性を呼び捨てにすることに抵抗を覚えた。彼はしばらくの間、スズの真剣な瞳を見つめていた。心の中では葛藤が渦巻いていたが、徐々にその壁が崩れていくのを感じた。
「えっと、スズ……?」
スズは満足そうに笑みを深めた。
「はい!これからもよろしくお願いしますね、アイヴァンさん」
ささやかなやり取りだったが、確かにお互いの距離は近づいたような気がした。
そしてアイヴァンは少し考え込んでから、もう一度スズに質問した。
「それで、実際のところ、王女殿下が顔を隠し、通訳をつける理由は何なんだい?」
「え?先程も言いましたけど、嫌いだからでは?」
彼女は本気で思っていたことを口にしただけだったのだと知り、アイヴァンは今度こそ声を上げて笑ってしまったのだった。
そしてスズと親しく挨拶を交わすようになると、他の随行員たちとも挨拶や会話をするようになるのも必然であった。挨拶だけの関係が、次第に日常の業務の合間に軽い雑談や冗談を交わすようになり、これまで親しい友人という存在がいなかったアイヴァンには新鮮で楽しかった。
それから、特に何かあったというわけではないが、何となく仕事がスムーズに進むようになったとアイヴァンは感じた。
「君が何か言ったのかい?」
戸惑うアイヴァンに対し、スズは優しい眼差しで答える。
「いいえ。ちゃんと見ていればすぐに分かることです。誰が責任者で、自分たちのために仕事をしてくれているのかなんて。貴方の働きぶりを見て、皆が自然と信頼を寄せるようになったんですよ」
アイヴァンは、その言葉に驚きと感動を覚えたのだった。自分の努力が認められ、信頼を得ることができたという実感はこれまでの人生で一度たりともなかった。この賛辞はアイヴァンにとって何よりも嬉しいことだった。
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数日後、使節団が王都近郊の農村を訪れることになった。
リンレイ王女が王国の農業と農民たちの暮らしを学ぶための訪問であった。
しかし、訪問の前日、サディアス王子はアイヴァンを呼び出した。王子は豪奢な自室で何やら楽し気に酒を飲みながら待っていたようだった。
「アイヴァン、明日の農村訪問はお前に任せる。私は王都で急な用事ができてしまったのでね」
王子は軽い調子で言い、グラスを煽った。
元々何も仕事をしていないのだから、王子不在でも日程の消化については特に問題は無いのだが、鬼燈国の手前、本当ならば諫言するべきだろう。しかし、王子に逆らうことは得策ではなかった。アイヴァンは一瞬だけ考えたが、すぐに冷静な表情を取り戻し、深々と頭を下げた。
「かしこまりました、殿下。全てお任せください」
サディアス王子は満足げに微笑み、再び酒杯を口に運んだのだった。