距離ゼロ
伊熊猛、二十三歳。ゼルコバ大学四年。
姓名共に勇ましい彼が学生限りの寓居としている六畳一間の木造アパートは、今年で築三十五年になる。
三年前に近くの銭湯が廃業したのを機に、和室の一角にシャワー設備が据えられた。大家はシャワールームだと言い張るが、設備は、半畳よりひと回り大きい程度の箱で、外観はロッカータンスそのものだ。猛暑続きの今は、こんなものでもありがたいが、湯の温度がぬるま湯程度にしか上がらないうえに五分も出し続けると水になるので、真冬に浴びるには勇気がいる。
盆休みの時期に入った今、大学生の多くは旅行やアルバイトに忙しくしている。
猛はといえば、一ヶ月前に就職活動を止めたまま何もしていない。
内定はゼロ。このままだと、この安アパートは仮住まいではなくなる。
付き合っている女性はいないが、これは決まった人がいないというだけで、猛は女に不自由したことがない。
狙った女は必ず落とす。成功率は、ここ二年でいえば百パーセントだ。
コツは三つある。
まず、高望みしないこと。
次は、仕掛けは周到に行う。綿密に、抜かりなく行う。
最後は、簡単に引き下がらないことだ。猛は一旦食いついたら離れない。要するにしつこい。しつこいから、本気になるほど嫌われる。その結果、取っ替え引っ替えするしかなくなり、それがくせになった。
猛は、ルックスを磨く努力を惜しまない。何ごとにも投資は必要だ。
もちろん、貧乏学生の身でブランド品を買い漁るわけにはいかないし、引っかけた女は貢がせる前に逃げてしまう。だから、猛が服を調達するのは、専ら古着屋だ。
猛にとっては、肉体もまた、ルックスのうちだ。これも、専門のジムに通う金はないので、ボディービルディングは、リサイクルセンターで調達した、ブルワーカーという一時代前の器具を使ってひとりで続けている。
その、弛まぬ鍛錬の成果で大胸筋や上腕二頭筋、三角筋、腹筋といった目立つ部分の筋肉は、それなりについた。張りぼての筋肉ではあるが、もとより目的はルックスなので不満はなかった。
狙った女をものにする行為は、猛にとってはゲームだ。
趣味の狩人が獲物を捕獲するまでの過程を重視するように、猛は、ターゲットとの距離を縮めるための、作為的行為の美しさにこだわった。それこそががゲームの本質なので、ものにしてしまうと執着はしない。興味の対象が次の獲物に移ったと分かれば、女は自分から離れていく。
今回、猛がターゲットに定めたのは、上坂橋駅西口の前にあるコンビニ、ゼブラマートのアルバイトだ。
年齢は二十二、三。背は百六十五、くらいか……。もう少しあるかもしれない。
何かスポーツをやっているようで、身体の線に健康そうな芯が感じられる。それがフェミニンな色合いの服装と相まって、スリリングな魅力を放っていた。
少し日焼けした肌も、肌理が細かくて撫で心地がよさそうだ。
化粧もなかなか巧い。節度ある彩りが、地味な顔立ちによく似合っている。
だが、まっすぐに結んだ口元に愛想はなく、目は終始伏し目がち。ふいに見上げる目は、睨むように鋭くて愛嬌がない。
こうした振る舞いが女を下げていることに、自分では気付いていないのだろう。ほんの少し表情を柔らかくすれば男はいくらでも寄ってくるだろうに。これでは要塞を着て歩いているようなものだ。
この、難攻不落とも思える美しき城に、猛のハンター魂は刺激された。
絶対に落としてみせる。
さて、きっかけはどうするか。
こういった、ガードが堅い非モテ系女子は、堅牢な護りに固められているがゆえに実戦経験が少ない。
猛は経験則に従い、古典的な手法を用いることにした。
仕掛けはあからさまで良い。その方が相手が舞い上がる。下心は、むしろ見せて、動揺させることができれば第一段階突破だ。
猛は、客の少ない時間帯を狙ってレジカウンターに向かった。
「あの、西川さん、ですよね」
ターゲットは怯えたような顔で猛の顔を見た。西川というのは胸のネームプレートを読んで知った。
「ですよね、僕、四中でいっしょだった木村です」
本名を名乗る必要はない。
「ほら、僕、陸上部だったから、よく体育器具室で一緒になった……、覚えてませんか」
「違います」
女は一瞬の躊躇のあと、例の睨むような目を向けてそう言った。
離れたレジにいた店長らしき男性が、ちらりと警戒の目を猛に向けた。
「わたし四中じゃありません」
「え、あ、うそ、ごめんなさい。あの、似てたので、つい」
猛は演技で狼狽えたのだが、彼女の目は尋常でなく冷たかった。怒っているのではない。警戒しているのだ。
「これ、あっためますか」
女は、カウンターに置いたショウガ焼き弁当に手を添えてそう言った。
目が小刻みに揺れている。平静を装っているが心拍数は上がっているに違いない。おそらく背中には汗が浮いている。
よし、仕掛けは上々、と確認したうえで、猛は「あ、い、いいです」と言って顔を赤らめた。
ちなみに顔色を変えるのは猛の特技だ。今は青くする特訓中だが、こちらはなかなか難しい。
猛は仕掛けの手を緩めない。
「あ、すいません、ごめんなさい」
焦ったふりでカウンターに小銭をばら撒いた。
セルフ化が進んでいないゼブラマートだからこそ使える技を、猛は惜しみなく使った。
お釣りを受け取ってそそくさと退店。今日はここまでだ。
明日以降は頻繁に顔を見せて声をかけ、小さな会話を交わせるようになったら、「あのときは驚かせてすいません、好きだった子に、似てたので」と伝えればいい。それで、ぐっと距離が縮まる。さしずめ、一キロ先にいた獲物に、距離百メートルまで詰め寄ったようなものだ。
こういう古典技が、猛は得意であり、また、好きだった。
だいたい、いかにも尻が軽そうな女に手当たりしだい声を掛けるようなナンパは恥知らずだし、品がない。
敢えて堅そうな女を選び、じっくり仕掛ける。それが猛の流儀であり、美学だった。
それにしても。
こういう周到さが万事に行き渡っていれば内定などいくらでも取れたろうに。才能は、誰に宿るかによって、何に発揮されるかも決まってしまうらしい。
一回目の接近のあとも、猛は焦らなかった。
「今日も暑いですね」「この時間って高校生多いんですか」「駅めっちゃ混んでましたけど」。
行けば必ず声を掛け、心理的な距離を一メートルずつ縮めた。
雨雲レーダーをチェックして、夕立がくると分かったら、わざと雨に濡れて駆け込んだ。
女は「あの、よかったらこれ、忘れ物なんですけど、もう廃棄なので」とビニール傘を出してくれた。これで、距離は五十メートルを切れる。
「棄てちゃっていいですから」、という傘を、猛はきれいに乾かして返却した。
「お礼に」と適当な紙の小袋に入れたハンカチを添えたが「これ、百均なんで。ぜったい、気にしないでいいですからね」と断る。中身は伊勢丹で買った三千円の品だ。
困った顔をしているところに、猛は「あの、僕、木村薫といいます」と名乗った。
いきなり名乗られて返答に困るのは想定内。
「この名前、百発百中女に間違えられるんですよ」という他愛ない話で、猛が場を柔らげると、彼女は小さな声で、「西村、麻里です」と名乗った。
これで、距離は三十メートルだ。
ちなみに、ハンカチを入れた小袋には、メールアドレスを書いたメモを入れてある。
ハンカチのタグを調べれば百円でないことはすぐに分かる。そうすれば、メールは間違いなくくる。これこそ生きた投資だが、こういう才覚が女を釣るために発揮されるとは、日本の損失である。
メールはすぐにきた。猛は、返信で、出会いのときのことを伝えた。例の「好きだった子に似ていた」というエピソードだ。
強引に畳みかけるのは、距離が、手の届くところまで迫ってからだ。それまでは、トキメキトークを小出しにして、慎重に距離を詰めるのだ。
こうした接近作戦の裏で、猛はリサーチも行っていた。
勤務シフトは観察していてだいたい分かっている。
月曜日と水木は早番。朝七時に入って午後二時に上がる。
金曜日と土曜日は遅番だ。十時で夜勤と交代するが、たまに十一時過ぎまでレジに立っていることもあった。通勤に交通機関を使っているようだと、際疾い時間だ。生活の拠点は徒歩圏内とみて間違いないだろう。
猛は、早番の上がりを待って、西村麻里のあとを尾けた。
予想通り、麻里は徒歩通勤だった。麻里はゼブラマートを出ると追野坂を登り、木佐街商店街を抜けて西に折れた。この辺りには廃屋になった古家もあって、夜ひとりで歩くには危険だ。麻里は、そんな寂しい住宅地を、さらに奥に進んだ。
古い住宅に挟まれた細長い空き地に竹藪があった。そこに、高さ一メートルもない小さな、朽ちた祠のようなものがあって、前に、チューハイの缶が置いてあった。飲み口に、煙草の吸い殻を擦った跡がある。供え物ではない。不届きにも、空き缶だ。
猛は、前方を歩く麻里が、路地の外れにある古いアパートの階段を上がるのを見届けたうえで、もう一度、竹藪を見た。
祠の奥では、竹が何本か縄で繋がれていて、白いも紙が垂れさがっていた。雨で半ば溶け落ちている。少し離れたところに、自転車が棄てられていた。マンガ雑誌とカップ麺の空容器もある。気味が悪いうえに、この辺りは治安も悪いようだ。
猛は、人に見られないように用心しながら、麻里が入っていったアパートに移動した。一階の郵便受けを確認すると、206号室のところに西村の名があった。戸数からみて、間取りは、おそらくひと部屋だ。まず、ひとり暮らしだろう。
アパートの周囲は手入れされていない樹木が多く、日当たりも悪い。スポーツを楽しむ女子には似つかわしくないな、と思ったが、猛は自分だってろくなところに住んでいないことを思い出した。生活の固定費を押さえようと思えば、まずは、住まいを我慢することになる。
しばらく見ていたら、麻里は大きなスポーツバッグと、剥き出しの、ラクロスのラケットを持って出てきた。
最近、この競技は人気があるのか、電車のなかでも、たまにラケットを持った女子学生を見かけることがあった。こういう趣味の女性なら、裏稼業の男と繋がっている可能性は低いだろう。
猛がこうしてリサーチをかけるのは、危険を未然に防ぐことも目的だった。
猛は金曜日の遅い時間を狙ってゼブラマートに寄った。女性向けに宣伝しているピンク色の栄養ドリンクを二本買って「遅くまで大変だね」と一本進呈した。距離も頃合い、決行は今夜だ。
麻里は「七百八十二円になります」と言って上目遣いに猛を睨んだが、きりっと結んだはずの口元はほんの少し笑っていた。
猛は、店の裏手に周り、妙にローズの香りが強いドリンクを一気に飲み干すと、少し離れたところから、店のようすを観察した。
ほどなく、ナンバーを折り曲げた青いスクーターが店の裏に停まった。
夜勤の男だ。今日は時間通りだ。
男はフルフェースのヘルメットを外し、頭を振って髪をばらけさせると、裏口から店に入っていった。
着替えて、簡単な申し送りを終えたら、麻里はこの裏口から出てくる。
十分はかからないだろう、と思っていたら、七、八分経ったころだろうか。「失礼しまぁす」という声が店の奥から聞こえ、麻里が姿を現した。
猛は驚かさないように気を付けてそっと近寄り「西村さん」、と小さく呼び掛けた。
すすっと傍らに近寄ると、麻里は目を丸くして猛を見た。
「え」
言葉が出ない。当然だ。
「ゴメン」
猛はそう言って頭を掻いた。
「え、なんで」
「待ち伏せ」
「え」
「なんか、人恋しくってさ」
「え」
用意は周到に行うが、距離が十メートルを切ったら逃げ場を作らせない。伊熊理論だ。
「こんな時間にひとりで帰るなんて危なくない?」
「いえ、大丈夫です。慣れてますし」
「いやいや駄目だってこういうことは、慣れちゃっちゃぁ」
「でもわたし」
もちろん、無理やりアパートに押し入ろうなどと考えているわけではない。
まあ、上げてくれればいいが、まず間違いなく拒絶される。そのときは、勇気を振り絞った体で軽くキスでもして、気持ちの昂ぶりを伝えておけば、次は容易い。
「ほんとはさ、ふたりっきりになりたくて」
「え」
風上にいる麻里の口から、さっき飲んだのと同じローズの香りが漂ってきた。
「だってさ、店のなかじゃあんまり話できないじゃん」
「ええ、でも猛さん暇な時間にきてけっこうしゃべるじゃないですか」
名前で呼ばせるようにしたのは、伊熊という苗字が言いにくいと麻里が言ったからだ。
「店でしゃべるのは会話とはいえないよ、だって店長の目とか光ってるし、あとほら、天井にはカメラとかもあるじゃん」
「カメラは関係ないじゃないですか、え、それともあれですか、カメラに写っちゃまずいことでも考えてるってことですか」
なかなか言うようになった。
「しないよぉ、ほんと、送ってくだけ」
「うち遠いですよ」
「平気だよ。僕も明日は休みだし」
「ええ、いやいややっぱり、この時間に送りはないですよぉ」
「この時間だからでしょ、大丈夫。何にもしないって約束する。あと、部屋に上げろとかぜったい言わない。道すがらお喋りするだけで満足だから」
「うっそ」
「いやいや約束するから」
「ほんとですかぁ」
「ほんとだって、犬連れて散歩してると思えばいいじゃん」
「犬……」
猛が「ワン」と軽く吠えて右手をお手の形で差し出すと「もお、しょうがないなぁ、じゃ一緒に歩くだけですよ」ということになった。
冗談を言ったつもりだが、麻里は笑っていなかった。むしろ表情が強ばっている。緊張させてしまっただろうか。
不思議なのはそこからだった。
麻里は店の正面に回り、木暮通りを上坂橋駅に向かって歩き始めたのだ。
方向が逆だ。
もしかすると、アパートの位置を知られるのを避けようとしているのだろうか。いやしかし、だからといって家と正反対に向かったら、それこそ帰りが困るだろうに。
「西村さんってこっちに住んでるんだ」
「え」
「まあコンビニのバイトだと、普通近くだよね、うん、そりゃそうだ」
まさか方向が違うなどとは指摘できない。すればストーカー行為を自白することになる。
「猛さんは、家、近いんですか」
「うん、家じゃなくってアパートだけど。垂木町。郵便局の近く」
「ええ、垂木町って。遠くないですか」
「目的があると通えちゃうんだよね、これがさ」
「え、だって」
「最初は友達んちに来ててさ、帰りにたまたまコンビニ入ったら初恋の子がいるんだよ。もうびっくりしちゃって、それからだよ、片道十五分かけて通うようになったの」
「あきれた」
「あれ、これって言ってなかったっけ」
「そんなに細かくは。好きだった子に似てるってのはメールにありましたけど、初恋って知らなかったし、片道十五分なんて初めて。ずっと近くかと思ってました」
「な、ほら、ちゃんと話さないと伝わらないもんだろ。ねえねえ、西村さんって何かスポーツやってるの?」
「え、何でですか」
「そのさ、初恋の人ってのがバレーボールやってたんだ。背は小さかったんだけど、肩なんかこう、パンっとしててさ。スポーツやってる女の子って、今でもなんか、萌えるんだよね」
これは本当のことだ。あまり女の子女の子してる子は気位が高くてナンパしにくいということもあるが。
それにしてもどこに向かう気だろう。もしかして、送らせる気はさらさらなくて、どこかで食事でもしてお茶を濁そう、という考えだろうか。
そんな手慣れた躱し方ができる女にも見えないが、と考えていると、麻里は唐突に話を振った。
「猛さんって、彼女さんいないんですか」
「いるように見える?」
「はい、口がうまいので」
「口がうまいって、ひどいなぁ。だってさ、どうしても仲良くなりたかったんだもん。そういうときはね、口べただって人見知りだって馬鹿力が出るんだよ、男ってのは」
いつの間にか、駅向こうの繁華街も抜け、飲食店もなくなり、住宅エリアに入っていた。道はいくらか上りになっていて、振り返ると駅が眼下に見えた。
さらに奥に進むと、周囲は、建物よりもむしろ木々の方が多くなっていた。
さすがに不安になった。
そういえばあのアパートの近くにあった竹藪。縄に結ばれていたの紙は紙垂ではなかったか。もしそうなら、あそこは結界の跡だ。何かがあって怨霊を閉じこめていた場所。そこが破られている。
背筋が寒くなった。
この女、何かに取り憑かれているのではないだろうか。こうして、うら寂しいところに男を誘い出し……。
「ねえねえ、西村さんって、ほんとにこんな静かなとこに住んでるの?」
麻里は何も言わなかった。言わない代わりに、いきなり猛の手を握ってきた。
どういう展開だ。
麻里は「こっちです」と言って猛の手を引っ張り、ぐんぐんと歩き始めた。
何なんだ。
足に力が入らなかった。もし、今止まったら膝が震えるかもしれない。
横道をいくつか抜けると、突然、袖看板が煌めくエリアに出た。
驚いた。
ラブホ街だ。こんなところに密集していたなんて。いや、よく見ればそう多くもないか。周りが寂しすぎるから目立つのだ。
しかしどう気持ちを落ち着かせても、猛には、状況が飲み込めなかった。
突然、麻里が頭を下げた。
「ごめんなさい。うち、ほんとは反対側のアパートなんですけど、狭いし汚いし、掃除もしてないし、だから」
「え、ああ、もちろん僕はオッケーなんだけど」
ナンパ師が何を狼狽えている。
「それで、すみません、あの、休憩代、あと払いでもいいですか」
「あ、もちろん。てか、僕払いますよ、そんなの」
猛は財布から一万円札を抜き取って渡すと、麻里は「すみません」と受け取って手近なホテルに入った。
リードされてしまった……。
猛は手を引かれながら周囲を見回した。なんとも間抜けな図だが、幸い、誰も見ていない。
麻里は慣れたようすで部屋を決め、まるで、世界から身を隠すような素早さで猛を部屋に連れ込んだ。
猛は、いい加減しゃんとしようと腹を決めた。ここからは自分がリードしよう。でなければナンパ師の名が廃る。
猛は「西村さん」と小さく言って麻里の肩を抱き、顔を寄せて口を吸った。ローズの匂いはもう消えていて、代わりに、子供の髪の毛のような健康的な匂いがした。
「あの、猛さん。先に、シャワー使っていただいてもいいですか」
「え、僕が」
こういう場合は女性が先ではなかったか。
猛は、自分が入っている間に持ち物を探られるのではないかという不安を感じたが、すぐに杞憂だと思い直した。
そういう女ではないと調べはついているし、万が一何かあれば、アパートだって知っているのだ。取り返すことも訴えることも可能だ。
「あ、でも、いいの? 僕が先で」
「だってぇ、初めてで先に脱ぐのって、恥ずかしい……」
麻里は身を捩ってそう言った。
「あっは、だってシャワーなんてひとりだよ。あ、もしかして僕が乱入すると思った?」
「ああもう、いいですから早くぅ」と照れまくりの麻里は、僕をシャワールームに押し込んだ。
まあ、先に入るのも悪くない。それで、ベッドの上で、彼女がシャワーを使う音を聞きながらじっくり待つのだ。
それにしてもおかしな展開になったものだ。今日日の女は地味に見えて意外に積極的だな。
猛は形ばかりの脱衣所で服を脱ぎ、シャワールームに入った。
ベッドの上で麻里がしおらしく待っていると思うと心臓がどくどくと鳴った。あのピンク色の栄養ドリンクには強精剤の成分でも入っていたのだろうか。
猛は立ったまま入念に身体を洗い、シャワーを止めて、備え付けの歯ブラシで歯を磨き始めた。
ふと、ドアの向こうに気配を感じた。
一瞬で頭が冴えて警戒態勢に入る。
麻里が、何かしている……。
距離は二メートル。駆け寄ってドアを開ければ、逃がさずに現場を押さえることができる。
「西村さん?」
返事はない。
だが、猛の衣服を探っているようすはない。何をしているのか確かめようとゆっくりとドアに向かった。
距離一メートル。
そこまで近付いて、何をしているのかが分かった。
服を、脱いでいる。
「おじゃましまぁす」
かちりと音がして、ドアが開いた。
全裸の麻里が姿を表した。
猛はくわえていた歯ブラシをぽとりとタイルの床に落とした。
麻里の身体は、不自然に膨らんだ胸以外、完全な男だった。
「ありがと猛さん、誘ってくれて」
麻里はそう言って、嬉しそうに小首を傾げると猛に近寄り一瞬で身体ごと抱き締めた。
距離ゼロ。
見せかけの筋肉では出せない、鍛え上げたられた、圧倒的な筋力だった。
麻里の手が下半身に降りてきた。
「ちょ、ちょっと止めて! 違うんだよ、あの、ちょっと待って!」
泣くように懇願する猛の口を、麻里の柔らかい唇がそっと塞いだ。
《了》