缶コーヒー1本分の時間
塾の小さな休憩所で、ベンチから自販機の前に移動した僕は、握りしめていた小銭を投入した。
先生は、いつも蓋ができるタイプのブラックコーヒー。
一コマ授業が終わったあと、休憩に入るときここでコーヒーを買う姿を何度か見ているから間違いない。
寒さではなく緊張で、缶コーヒーを取り出す手がちょっとだけ震えている。が、無視だ。
今日の、このタイミングを逃したら、冬期講習限定の講師をしている先生と話をすることは難しくなる。
教室で授業を受けていた塾生たちが出ていってしばらくすると、先生は手に財布だけ持って出てきて、自販機の前にいる僕に気がついた。
「あれ、水谷くん。どうしたの、もしかしてどっか質問?」
いつも通りの先生の声。
一昨日はここで、はいそうなんですと言ってしまって15分間宿題の問題に時間を使ってしまい、何も言えなかった。でも今日は違う。今日しかないんだ。言え、頑張れ、自分!
「質問、とかじゃないんですけど。…先生の時間、缶コーヒー1本分だけ、僕にくれませんか。」
そう言って、僕はさっき買った缶コーヒーを先生に差し出した。
先生は一瞬驚いたように見えたけど、すぐに笑って、
「相談とかそっち系かな?ここじゃ寒くない?」
と言って僕の手から缶コーヒーを受け取ってくれた。
「全然、寒くないです。あ、でも先生寒いですか?」
僕がそう言うと、先生は自販機にお金を入れながら、
「一コマずっと喋って暑いくらいだから、こっちは大丈夫だよ。」
と言って僕の方を見ると、
「どれが好き?」
と自販機を指して言った。
「生徒に奢られるっていうのもあれだからさ。交換ってことで。」
子供扱いされていると感じたけど、僕はおとなしく自販機のボタンを押した。先生のと同じ、ブラックの缶コーヒー。
「お、コーヒー好き?」
そう尋ねる先生に、僕が好きなのはコーヒーじゃなくて先生ですとすんなり言えたらどんなにいいだろう。
実際は、ええまぁそんな感じです、と口の中でごにょごにょ言っただけだった。
二人でコーヒーを飲む。もうそれだけで、味なんかわからない。缶コーヒー1本分の時間は、あと何分残っているんだろう。
僕はぐるぐる考えて、何も言えなくなってしまった。
先生はその間、何も言わずに待っていてくれた。
無言のまま、予鈴が鳴る。時間切れだ。
すみませんでした、と帰ろうとした僕に、先生が一瞬何か言いかけたように見えたけど、見間違いかもしれない。
今頃になって、口の中が苦い。