13.10 四月一日(6)鉄面皮が剥がれるとき
非常識なことを楽しむ人間もいるが、リッシュモンのように良くも悪くもきまじめな人間は、規範から外れることを嫌悪する。
「愚かなことを考えたものです」
開口一番、きつい一言をお見舞いされた。
弱さや欲望を認めつつも一線を越えることを踏みとどまっている人間からすれば、私の提案は悪魔のささやきに等しい。
「陛下の方こそ、私をみくびっておられる。見返りなど不要です」
「そうか、私の見込み違いだったか」
私は平静を装いながら、リッシュモンの胸ぐらをつかんでいた手を離した。
「失礼した。だが、オルレアンやバーゼルで思わせぶりなことを言ってさんざん翻弄しておきながら、今になって私を責めるとは……、貴公もずいぶん人が悪い」
引き寄せていた手を離して解放したにもかかわらず、リッシュモンは近づきすぎた顔を離すことも背けることもしない。駆け引きはまだ続いている。
「陛下を責めているのではありません。私はただ……」
「一応、聞いておく。以前、オルレアンで私を慰めたいと言っていたな。傷を舐め合い、心も体もひとつになりたいと。あれは《《そういう意味》》ではなかったのか?」
たっぷり沈黙したのち、むっつりと不機嫌な表情でリッシュモンは白状した。
「……《《そういう意味》》で相違ありません」
昏くうつろな気配を漂わせる瞳に気圧されたのか、胸の奥で鼓動が早鐘を打ち始めた。
「ならば、《《愚かなこと》》を最初に持ちかけたのは貴公だ。私が責められる謂れはない」
動揺を隠すように虚勢を張るが、腰が引けているのが自分でもわかる。
私は元来、小心者なのだ。強力かつ円満な絆を望んでいるが、判断を誤ってこれまでの主従関係が破綻することだけは避けたい。
「ですが、あの日の陛下は私を拒んだ……」
「そして、今夜は貴公が私を拒んだ」
「あなたを拒むなんてできるわけがないでしょう」
ふいに大きな手が伸びてきて、反射的にリッシュモンの手首をつかんで押しとどめた。
「ほら、拒んでいるのはあなたの方だ」
うつろだと感じた瞳が、光を帯びてかすかに揺れた。
「やはり会うべきではなかった。もうこんなことは二度と……」
「えっ、ちょ……、リッシュモン?」
溢れはしなかったが、決して大きくはない瞳が涙ぐんだように見えた。
普段ならあり得ないほど距離が近かったから、かすかな感情がこぼれたのを見てしまった。その瞬間、リッシュモンの瞳以上に私の心が大きく揺れた。
「リッシュモン、こっちを見ろ」
側頭部を両手で包み込むと、無理やりこちらを向かせた。
「一体、なんですか」
「いや、なんとなく」
さすがに、泣いていたのかとは聞きづらい。
戸惑うリッシュモンの側頭部から目元にかけて、慰めるような気持ちで撫でていると、ざらっとした古傷に気づく。
「ここ、アジャンクールで食らった一撃の跡だろう? 痛むのか?」
「いえ、今はもう……」
読者諸氏の時代風にいうと、キョドるとでも言うべきか。堅物かつ強面の大元帥が動揺している姿は非常にめずらしい。
「アルテュール・ド・リッシュモン、貴公は案外かわいいところがあるな」
「か、かわいい……?」
「うん」
リッシュモンのいう欲望混じりの大きな好意とは、おそらく別の種類だろうが、このたくましくも堅物な大元帥にむしょうに愛おしさを感じて、ごく自然に私のほうから唇を寄せた。
「貴公はまじめだな。そしてとても一途だ……」
以前危惧した通り、結局のところ、私はほだされてしまった訳だが。
「思えば、貴公の前では、なぜかいつも人に見せない感情や弱み、恥ずかしい部分をさらけ出している。だが、不思議と嫌な気分ではない。きっと私たちはそういう運命なのだろう。だからいいんだ……」
「早まってはいけません。ご自分が何を言っているのか、何をしようとしているのか、わかっているのですか?」
両肩をつかまれて、揺さぶられた。
「痛いなぁ。乱暴に扱われるのは好きじゃない」
「こんなことをしなくても、私の忠誠心はみじんも揺らぎません! それなのに、私の心を疑って取引を持ちかけることを『愚かだ』と言いたかった……。ただ、それだけなのです……」
私は「そうか、そうだったのか」とつぶやきながら、うなだれたリッシュモンの頭を再びなでなでしている。当のリッシュモンもされるがままだ。
「だがなぁ、一方的に捧げられるだけでは、私の方が気を使ってしまう。それに、私は貴公が思うほど子供じゃないぞ。純粋でも純朴でもなければ、貞節でもない。なにせ、あの淫乱王妃の息子だからな」
冗談めかして軽口を叩いたつもりだったが、悪趣味な皮肉に聞こえたのか、リッシュモンは傷ついたような表情を浮かべて愕然とした。
「……失望したか?」
「ご自身のことを、そんな風にいわないでください」
「父の子かどうかはわからないが、あの母の子であることは事実だ」
「それは関係ない。あなたが誰の子であっても、私の心は決して変わらない」
「私が不義の子だとしたら、貴公の正義に反する王だろうか? なあ、リッシュモン、神も家族も友人もすべてが敵になっても、最後まで私に付き合ってくれるか……?」
返事を待たずにリッシュモンの首に腕を回した。
リッシュモンもまた何も言わず、私の背中を抱き寄せた。
*
城に付属する礼拝堂から鐘の音が聞こえる。朝昼晩の祈りの時鐘、災いを知らせる警鐘、祝福や弔いを伝える福音の鐘——、いずれも3回を基準にして通常は「3の倍数」を鳴らす。
教会の鐘は神聖な音、3は神聖な数字といわれている。
かつてジャンヌは、彼女を導く「声」について、鐘の音になぞらえた。
複数の声に初めは戸惑ったけれど、一番輝いている《《ひとつの声》》を中心に据えたら迷わなくなったと言っていた。
今、私の中心にあるものは「ジャンヌの声を真実にする」ことだ。
聖なる音の残響が消えるまで、私たちは微動だにしなかった。
表では園遊会がおひらきとなり、裏の控室ではこの歪な主従関係が新たなフェーズを迎えようとしていた。





