幼馴染の独白
『愚者の独白』の別視点です。
前作をお読みになっていない方は一応目を通した方がわかりやすいと思います。
並ぶその二つの背中が、微笑ましかった。
早くに大切な連れ添いを亡くしながらも、一人大切に娘を育て上げた友の姿。
亡き彼女に良く似た、聡明で優しく美しい教え子。
仲良く並び、明るい声を交わしながら王城を歩くその姿を疎む人間などいなかった。
特に、娘であるシュティル嬢は、その持ち前の優しさと明るさで、誰からも愛されるような美しい次期王妃候補だった。
『…………殿下』
しかしそれが、いつからだろうか。
いつも柔らかい微笑みを湛えていた口元はきつく結ばれるようになり、周りを照らすような朗らかな声は固く冷たい、張り詰めたものになって。
多忙な日常に自らを落とし込むようになって、その全てに完璧を求めて、使用人にきつく当たることも増えていた。
声を掛けても、大丈夫だと言い張るその声は、疲労で荒む。
ただでさえ白い顔は青く透けそうな程にやつれて、艶やかに光を反射していた赤茶の髪は手入れされていないのが一目でわかるくらいに乱れていたのは。
『殿下!』
いつから、だったのだろう。
「あなたっ、シュティ様が……!」
彼女が、自ら死を選ぶ程に追い詰められた、のは。
「シュティ様が、シュティ様が……」
血相を変えて自室に飛び込んで来た妻の顔に、続く言葉に、私は立ち竦む友の姿を思い出していた。
不幸な事故で、友の妻であった彼女が亡くなった。
私と、友と、彼女で、幼馴染みだった。
昔から決まっていた婚約。けれど、互いに愛し合い、想い合って得た家族の形。
けれど、シュティル嬢がまだ幼子の時に、彼女は亡くなった。
良く晴れた天候の中、一人墓の前で立ち竦む友の背中。
表情というもの全てが削ぎ落ちて、右手に握られた純白の花と、左手に握ったシュティル嬢の小さな手だけが、彼をそこに立たせていた。
「……おとうさま?」
いつもとは違う環境。空気。それらに違和感を覚え、見上げるその視線。
「おかあさま、は?」
幼い彼女に、母の死が理解出来る訳もなかった。ただ、いつもは共にいる存在が今ここにいないことが、疑問であったのだろう。
けれど、私が思うよりもずっと聡いあの子は、何かしらを理解していたのだと思う。
彼女譲りの赤茶の髪が不安げに揺れて、何かを伝えようと波打って。
そしてもう一度、落とした目線を友に合わせて。
何も言わぬ父に、何かを察して。
握られているその手を強く握り返して、言ったのだ。
「わたしがいる、よ」
ぎゅう、と、引いた腕。安心させるように、その薄いグレーの瞳を緩ませながらも、歪に笑う小さいあの子。
「わたしが、いる」
何一つ分からなくても、友をこの世に引き留めるには、それ以上ない言葉だった。
表情一つ浮かべていなかった友を泣き笑うようにさせたその存在は、生前の彼女と同じように笑うから。
「ああ、そうだね。……シュティ、お前がいてくれるな」
少し困ったように、申し訳なさそうに声を掠れさせた友は花を地に落とし、小さな体を抱き留める。
「うん。わたしが、いるよ」
そんな父を、届かないながらも抱き締めた娘。
「ああ。お前は、私が守るよ」
「うん」
そうして彼女の墓の前で誓ったその言葉の通り、友はずっと厳しくも、愛を持ってシュティル嬢と暮らしてきた。
暮らしていた、のに。
まるで十数年前と同じ景色を切り取ったかのように墓の前に立つ友の背に掛ける言葉を、私はまた持ち合わせていなかった。
雨が降っていた。右手に花を抱えていた。その左手は、きつく握り込まれて、いた。
「あなた……」
何も伝えられず、ただその背を眺めることしか出来ない私の横に、妻が並ぶ。
そっと腕を取り、私を支えるように立ってくれる。だから、ふと思ってしまった。
「誰が、アイツを支えてやれるんだろうか」
もう、その左側には誰もいない。嘗て、最愛の存在の死を共に乗り越えてくれた存在は、いなくなってしまった。一人で、全てを背負って、いなくなってしまったのだ。
「…………」
それなのに、絶望の最中に辛うじて立つ友を支えることはおろか、その足元を掬う事実を、今から友に伝えなければいけないということが。
「シュティル様、どうして……」
「シュティル様……」
誰かとすれ違う度に聞こえて来る彼女を惜しむ声が、私の足を重くさせて、億劫にさせる。
けれど、後で知ってしまうよりは今、この場所で告げた方がマシなのだと思い込んで、私は友の背に呼び掛けた。
「レナード」
久し振りに呼ぶ彼の名前。王城で会うときはお互い官僚としてだから、こうして名を呼ぶこともない。
唯一名を交わしていた飲み会も、シュティル嬢が引きこもりがちになって以来、行われていなかったから。
久方ぶりに正面に立つ友の違和に、気付いていなかった。
「ああ、来てくれたのか」
だから、力なく振り向いた、そのやつれた顔に私は息を呑んだ。
窪んだ眼、痩けた頬。乱雑に辛うじて整えたとも言えなくもない髪。付き合いの長い私でさえ見たこともないその姿に、吐き出す言葉が震えないように、拳を握り込んだ。
「……どうか、堪えてください」
その姿を見て、いつもと同じような気安い声は掛けられなかった。だから、余所行きで、感情を殺して、事実を伝える宰相の姿で吐き捨てた。
「大丈夫だよ」
友はきっと、私がシュティル嬢の死を嘆いて後を追わないよう、そう声を掛けた思ったのだろう。
取り繕われたその笑顔にそれ以上事実を告げることが出来なくて、私は結局事実を伝えることが出来ないまま、曖昧に笑うことしか出来なかった。
シュティル嬢が亡くなる数日前。
私は、王太子殿下に呼び出され、その話を聞いた。
「ご懐妊……ですか」
「ああ、めでたいであろう?民衆にこのことを知らせる宴を開くから、準備せよ」
何のきらいもなく、彼は続ける。
「彼女が初めて皆に姿を現す場だ。全てを最上に、頼んだぞ」
そう放つ彼の声は柔らかい。傍に立つ、最愛であろうその存在に目を向け、笑い合う。
その異国の少女は、彼女と何もかもが違った。
ふわふわ巻く栗色の髪も、純粋さだけを詰めたような同色の瞳も、可愛らしい顔立ちも、未だに身に付かぬ作法のなっていない立ち姿も。
彼女が死んでまで欲しがった、寵愛を受けるその姿も。
何もかもが、正反対。
「宰相?」
応じない自分に少し不快さを覚えた殿下の声に、私は反射的に問うた。
「……シュティル様は、如何なさいましょうか?」
異国の少女を王妃として以来、顔を合わせていないであろう殿下へそんなことを尋ねたのは、意地が悪かったと思う。
しかし、彼の切れ長な金色の眼が少し揺らいだのを見て、私は前言を繕う。
「お身体の調子が優れないと聞きます。その場に第二夫人として立って頂くのが本来ではありますが、邸宅で療養して頂くのが良いのではと」
その場所を奪った人間を祝う席に、態々呼ぶことはない。見せつけるように、嫌がらせをすることを望むのであれば、別であろうが。
「そう、だな。そうしてくれ。手紙を頼む」
「承知しました」
殿下が、彼女に少なからずの負い目を感じているのは知っていた。シュティル嬢と共に嘗ての教え子だったこともあり、彼の性格も理解してはいる。
少し時間を置き、シュティル嬢の傷が癒えれば、彼と彼女は再び分かり合えるだろうと。
彼女が亡くなるまで、そんな甘い考えを抱いていたのだ。
「彼女に、花を」
披露目の宴を行う前夜。シュティル嬢の訃報を耳にした彼が、私を呼び出した。
「手向けに、行かせて欲しい」
予定を空けるため、政務を押して根詰めていた殿下の顔には疲労が滲む。
既にシュティル嬢が亡くなってから数日が立つが、いつも傍に置いている異国の少女を払い、目の下に濃い隈を作り、密かに私にそう告げてきた彼を、拒絶することは不可能だった。
シュティル嬢と、その母が眠る墓の前で膝を折り、生前彼女が好いていた花を手向けた殿下の心は、彼にしか分からない。
しかし、掠れながらも何かを言ったその言葉は本心であったのだと、やり切れない感情に奥歯を噛み殺して堪えた。
「先生」
「はい」
夜も更け、彼と自分の持つ二つの灯りだけがこの場を照らす中で、彼は呟く。
「僕は、決して彼女が嫌いだった訳ではないのです」
昔使っていた一人称に、取れた尊厳。自分を師と呼んでいた頃に戻ったその口調に、私は目を伏せて続きを聞いた。
「次期王妃として、彼女は良く頑張ってくれていた。僕を支える為に努力していたのだと、理解しているのです」
普段の彼であれば、絶対に使い回さないようなセリフ。
きっと聞けば聞く程に彼を憎めなくなるのだろうと思いながら、吐露された胸中をただ聞いていた。
「……羨ましかった。妬ましかった。僕よりずっとずっと優秀で、それなのに僕の顔を窺うように見る。王太子だから国王になる僕と、優れているから王妃になる彼女。その差は、絶対に埋められやしない」
共に並び、共に学んだ間柄だからこそ、彼は彼女に劣等感を抱く。そうして募っていったものが、異国の少女という、彼を支える存在が現れたことによって、表面上に出てしまった。
一度吐いた言葉の取り返しなんか出来なくて、何をしても自分の抜けた穴を埋めてしまうシュティル嬢の優秀さが、余計に溝を深めた。
たった少しの、すれ違いであったのだ。
話し合えば解決出来るくらいの、細やかなすれ違い。
しかし、歩み寄れない彼と、自分が至らないせいと勘違いしてしまった二人の間を取り持つことは、ついぞ出来なくなってしまったから。
私はまた掛ける言葉を持たなくて、ただその場に立ち尽くす。
「すまない。忘れてくれ、宰相」
望まれた国王としての仮面を被り直した彼は、私に背を向けて歩き始める。
その背中にさえ何も声を掛けることの出来ない自分の無能さを、恨んだ。
夜明けには、彼は愛しいあの異国の少女の傍で笑わなければならない。
盛大に祝われるその場で、シュティル嬢の話題など忘れ去ったように、振舞わなければならないのだろう。
友の心も、彼の心も、どちらも知ってしまってる私は、どうするのが正解であったのだろうか。
何もせずに静観していた自分が一番害悪である気がして、私は首を垂らした。
だから、だから。
まるで捕まえてくれと言わんばかりに痕跡を残して悪事に手を染める彼を、今度こそ見ていられなかった。
「レナード。……もう、やめないか」
たった一枚の紙切れ。
城の造り、軍事案、貿易に関する報告書、施行される制度類。
極一部の、限られた人間しか知り得ない情報がふんだんに書き示された機密情報。
彼の、端整な字で書かれたそれらは、全て跡を追えるように、関連した書類が少しずつ紛失していた。そして、その字で、新しくすり替わっていた。
「やめないさ、サミュエル。私はもう、この国に見切りを付けたんだ」
深夜に屋敷へと押し掛けて来た私を追い返すこともなく、懐に入れてそう諦めて笑う友。
何故、など、問う価値にも値しない。
友の、敬愛して、尊敬を持って、忠誠を誓った前国王陛下は崩御された。
友の愛した人間は皆いなくなって、代わりと言わんばかりに、友から唯一を奪った彼がその場所に立つ。
許せるはずもない。容認さえも出来ない。
そんな友がこんな風に国を売るのは、必然と言えたかもしれない。
「もうどうでもいいんだ。どうでも、いいんだよ」
暖炉に薪を焼べる友の背中越しに、ぱちぱちと火種が弾けるのが見える。
「サミュエル。もう、どうでもいいんだ」
再三繰り返すその言葉に、ただ待つだけの死を望む彼の絶望が窺えた。
「おまえなら、もっと上手くやれただろう……?」
だから、まるで言い訳のように、宰相として決して口にしてはいけないそんな言葉が口を滑る。
ちらりと振り返った友の視線が、私の発言を咎めるように射抜く。
けれども、ずっとずっと自分で感じていた彼の懇望に気付けば、自然とその口は軽くなっていく。
「これが、私に対する罰とでも言うのか?」
彼であれば、私に一切気が付かぬよう偽装するなんて朝飯前であっただろう。
騎士家の家に生まれながら、剣の才が一切なくて代わりにペンを握り続け、学園内で常に座学が一位だったおまえなら。
あらゆる政策を試みて、陛下の右腕として生きてきたおまえなら。
私のような、家柄だけで宰相の地位を授かったような人間に尻尾を掴まれるはずがない。
それなのに、いとも簡単に私が追えるように細工しているのは。
「私の手で、おまえを殺せと?」
そういう、意味なのだろうと。
握り締めた一枚の紙切れが、くしゃりと潰れる。
「何もしなかった私への罰だとでも、おまえは言うのか?」
ぐっと詰まった声を無理やり吐き出して、じわりと滲む視界に友の姿を収めた。
そして、何も言い返してやこない友の言葉が証左だと知って、より一層私は拳に力が入る。
「レナード」
この事実を知って、殿下に報告をしない訳にはいかないから。
私は宰相で、国に仕える者で、しかし、彼は友だ。
ああ、選べと、おまえは言うのか。
「好きにしてくれよ。お前には守るものがある。……そうだろう?」
震えて、ただ見つめることしか出来ない私に、彼はなんでもないように匙を投げた。
「ああ、好きにしてくれ」
そう、いつもと同じように微笑んだ彼に、私は顔を歪めた。
出来ることなどない。彼を繋ぐような鎹にもなれなければ、彼を守るために持つ全てを捨てることさえも出来ない。
私に選択肢など、最初からないのだ。
「許せ、サミュエル」
「おかえりなさい、あなた」
「おかえりなさい、お父様」
友の言葉を抱いて帰宅した私を、妻達が出迎えてくれる。
「……ああ、ただいま」
最愛の存在。自分よりもずっと大切で、彼女達の為ならこの身さえ投げ出しても構わない。
それは、彼だって同じなのだ。
「どうしたの?」
「なんでもないさ。後で茶を入れてくれないか」
「では、先に部屋に行っていますね」
「ああ」
出迎えてくれた妻に要望を伝えて、私はそこに立ち尽くす。
彼が失ったものを全て持っている私では、絶対に彼と同じ場所には立てない。もう、二度と同じ場所でバカを言って笑い合えないのだと、離れていく背中を眺めながら殊更実感した。
「……そう、か。彼が」
友の裏切りを把握した翌日。
くしゃくしゃになった紙を殿下に渡して、事の次第を報告した。
積み重なる政務に、腹心の臣下の裏切り。
数日前に会った時よりも色濃くなった疲労の気配。
机の上に肘を突いて俯く殿下の言葉を、ただ待った。
「やはり、彼だったのか」
その顔が漸く上げられたとき。深い諦念が込められたその声に、首を傾げる。
彼にやはりと言わせる程の何かが、あっただろうかと。
「ああ……箝口令を敷いていたんだが、実はここ数日、部屋に侵入してくる輩が増えている」
「それ、は」
初めて知った事実に、私は口を噤んだ。
「彼女の披露目をした以降、何度かあった。もしやとは思っていたが、肝心の証拠が何一つなかった」
何かを押し殺すように、淡々と告げられる事実。
「が、これがあれば……」
机の上に放り出された紙を睨んで、ぐっと眉間を寄せる。その次の言葉は、言わずとも、聞かずとも、察せるものだから。
「では、そのように?」
「……ああ」
ただただ苦くて、息苦しい沈黙から逃げるように、私と殿下は静かに言葉尻を切った。
背中に伝う嫌な汗。からっからに乾いた喉を誤魔化すように、喘ぐように息を吸う。
「かしこまりました」
これから自分で起こす行動に吐き気を覚えながらも、私は着実と友を殺める支度をしていた。
『ああ、サミュエル。見てくれ、彼女にそっくりだろう?』
『気難しい顔をしてるおまえに似なくて良かったな』
『ふふ、私はレナードに似て欲しかったわ』
『叔父様!』
『シュティ、何故私ではなくサミュエルの方へ行くんだ?』
『おかあさまがおきゃくさまをおでむかえしなさいっていってたもの!』
『あらシュティ、良く出来たわね』
『本当に優秀な子だな、君に似て』
『先生、わたし、王妃になりたい』
『ああ、君ならなれるよ。母君に似てとても優しく、聡明な君なら』
『私はまだ良いと思うんだがな……』
『どうでもいい、ことだ』
「やれ」
逃げるように、空想に浸っていた私を、現実に引き戻したその声。
友は断頭台に頭を垂れて、ただその時を待っていた。
言い残すことなど一つもないのだと、そう言い切った友の顔は、もう見えない。
緩慢な動作で、執行人が縄を引いていく。まるで舞台の一幕が上がるように上る、研ぎ澄まされた刃。
限界まで引かれて、執行人が縄を持ちながら、恭しく腰を折った。
そして、幕切れだと言わんばかりに、その刃は、幕の代わりに落ちる。
友の首に、刃が立った。
それは一瞬のことで、けれども、まるでそのときが止まったかのように鮮やかに、この目に焼き付ていく。
上がる歓声。転がって行く、友の首。
「ああ、どうして……」
熱狂的に沸く広場の中で、一人場違いに俯いた。
閉じられたその瞳は、もう二度と開くことはない。
軽口を叩き合った良く回る口も引き結ばれたまま、動くことはない。
「何故、そんな顔をする……?」
それなのに、友は何故か、とても穏やかな顔で眠っているように見えたのだ。
「……あなた」
日記を記し、ぼうっとペン先を見つめていた私の視界の中に、同じように月日を重ねた妻の手が横切る。
「また、見られているのですか?」
机の上にいくつも乱雑に置かれた今までの日記達を目に止めた妻が慮るようにこちらを見て、そっと私の手から日記を取った。
「もう、おやめになってください」
友の死から半年余り。こうして屋敷に戻り次第自室に閉じ籠り、密かに懐古に浸る私を、妻はこうして何度も止める。
「……今のあなたは、お二人に良く似ている顔をなさっているわ」
じっとこちらを見つめて来る妻の瞳の中に、自分がいる。
彼女にこうして心配させてもおかしくない顔をした、自分が。
「すまない。わかって、いるんだけどね」
自分から目を逸らした先には、幸せを綴った日記が沢山ある。けれど、何度も手に取って、読み返して、ああ、こんなずではなかったのにと思わせるその日記しか、私は手に取れなかった。
自分にもっと、出来たことがあるだろうと。
師として、友として、家族として、もっと。
無駄に綺麗で見慣れた文字を追う度に、そんな思考に苛まれる。それでも、こうして後悔する時間だけは自分を少し許せるような気がして、やめられないのだ。
「……沢山、あったんだ」
「あなた?」
「言いたいこと。伝えたいこと。分かち合いたいこと。読み返せば読み返す度に、増えて行くんだよ」
月ごとに並べて日記を本棚へと戻す妻の背中に投げ掛けたそんな言葉達はもうとっくに行く宛てを失っていて、二度と届きやしないから。
「……あったんだ」
だから、もう存在しない言葉を飲み込んで、私は妻の胸に蹲りながら、目を閉じるのだ。
「…………何一つ、伝えられはしなかったがね」
もう、言葉の行方を全て失い、残った後悔だけを抱えていく私の独白は、ただ誰にも知られないまま白い羊皮紙に残される。
『何も出来なかった』
それは、物語を傍観することしか出来なかった幼馴染の、悔恨の独白。