鍵の国のアリス
早く目的地に着くために、建物と建物の狭い間をショートカットしている少女がいた。少女――七原有栖は少し足早に歩を進めて、散歩道のような場所に出た。車一台通れるかどうかの道だ。
「ふー、家まであと少しかな」
少女は早く家に帰るために時間短縮としてこの道を進んでいた。それが彼女のいつも通り。早く帰って宿題をこなし、そのまま趣味の読書に時間をつぎ込む。それが小学生高学年の一少女の日常だった。
だが。少女はふと、なんとなく、下を見た。
もちろん落ち込んでるからとかではなく、半ば無意識に違和感を持ち下を見たのだ。アスファルトは何故か違和感だらけだったのだ。それはもちろん、幻覚の一種だとは考えられるが、少女はそうは考えず不思議に思った。なぜなら、違和感の正体がイマイチ分からないからだ。アスファルト――まごうことなきアスファルトに見えるが、何かがおかしいと少女は思う。それは、少しばかりピントが合わない――そう言ってしまうのが一番正鵠を射ている。
アスファルト全てに目を通す。それは当然、端っ側にあるコンクリート製の石ブロックも目に入る。
普段――普通ならば、雨などの水をアスファルトの下に落とすために穴が開いている。だが、少女の目には今、そうは見えなかった。
道端に開いてた鍵穴。
そう、鍵穴だ。穴が鍵穴へと形を変えていた――少女にはそのように可視化されていた。
奇妙。日常の中にある不気味な非日常ともいえる状況。少女は少女で、だからこのことを当然不思議だとは思う。だが、この程度であればそういうものもあると思っていた。『鍵穴に見える穴』くらい、あるものだと思っていた。しかし違う。他の石ブロックと石ブロックの間全てに、鍵穴と思しきものがあった。
統一。統一されていた。それが普通であるかのように、鍵穴は道端にいくらでも開いていた。これはこれで、統一性とエンタメ性のためにこうしていると思っても仕方ないが、少女はそうは思わなかった。
「鍵穴があるってことは、鍵がどこかにある?」
あたりを見渡す。鍵はなかった。
有栖がどこを見渡そうとも、鍵らしきものは落ちていない。有栖は不思議がる。鍵穴には鍵が必要だと知っているから、どこにあるのだろう? そう考える。あたりにはない――ということを踏まえれば、普通ならば別の場所に――どこか少女の見えない遠くに鍵が置かれているのかもと思う。
少女はどこにあるのかと少し頭の角度を上にした。カーブミラーが目に入り、驚愕の事実に思わず尻もちをついてしまった。
「私の……体に!?」
鍵は有栖自身の体に埋め込まれていた。ちょうど胸真ん中あたりに、金の鍵が刺さっていた。有栖は戸惑いを持ちながらも、その鍵を抜いた。
まじまじと見る。
五センチ程度の鍵だ。金色の、豪奢なカギだ。
そう思いながらも少女は思う。これで鍵穴に鍵がさせる。
そして少女は石ブロックの間の空洞――鍵穴に自身にささっていた鍵をさしこみ、回す。
カチャリという音とともに、
「わ!?」
落ちた。否、落ちた感覚があっただけ。
実際に起こった現象は、先ほどの景色と全く違うような場所に入れ替わっていた。
どこか広い部屋の一つ。色とりどりの鮮やかな、明度の高い様々な色があふれていた。大人が見てしまえばそれはチカチカして見づらく、あまり凝視したくない景色だったが、少女――有栖はこの景色に見とれてしまった。まるでおとぎ話の世界の景色。見とれてしまうのも、我を忘れるのも簡単だ。地球とは、現実とは別世界。
すべてがすべて、初めてだらけだ。
「おい、お前さん」
そこに人がいるのは、彼に呼びかけられて初めて彼を認知できた。
有栖はその彼を確認する。
顔が球体ではなく三日月。人間と同じく二足歩行、二本の手。ジェイステッキをくるくると回している。衣装は紳士服。そして少女より身長が半分以下だった。五十センチ程度だろう。何より印象的なのはペストマスク――カラスのくちばしと互い無いことだった。
それが話しかけてきたのに、有栖はまたまた驚いて尻もちをついてしまう。そうしてようやく、彼が有栖よりも上の目線で話すことができる。
「放心してるのか?」
「い、いえ、ちょっと驚いて」
「そうかそうか。ま、驚くだろうな。人間以外で、人間の言葉をしゃべる存在なんて初めてだろう? それとも、アリス。君は初めてじゃないのかな」
有栖は彼の言葉の意味がイマイチ分からずキョトンとしてしまう。
「君にとっては戯言か、アリス」
「え、私の名前知ってるの?」
ここで少女はようやく気付いた。目の前の不思議な存在は、少女の名前を既に知っているということに。
「そりゃあ、お前さんの心の鍵が外的要因に結びついて開いた結果の存物だしな」
「どういうこと?」
「ふむ……」
彼は悩む。どう話せば伝わるのかと。
「ようするにだねアリス。これはアリスという存在にしかできない結果で起こったことだ。……君は不思議の国のアリスは知っているだろう?」
「うん。私と同じ名前の人が不思議なことに巻き込まれるって話」
「まあ、有名だからその程度は知っているわけだよね。わたしはそれの副産物かつ、現実性を持っている存在だな」
「どういうことなの?」
小学生には、否、大人にさえ意味がほぼ理解できないことを話す彼は、少女有栖の様子を見て、
「普通に話すか。キャラじゃないんだけどな」
そう言った。そして言葉を紡ぐ。
「つまり、君がわたしを見ていることは異常なんだ」
「異常。そんなにおかしいの?」
「ああ、おかしいさ。子どもが大人に力で勝てるほどおかしい」
「それはおかしいね」
「だから君は、それを利用してほしい」
「え?」
「子どもは親――大人に束縛されている人が多くいるからね。親からいじめを受けるものとか。そういう人って普通ならどうにもならないじゃん?」
「そう、だね」
「だから、君のこの力――『鍵の力』で導いてほしい」
「鍵の力?」
「君がわたしのもとに来たのは『鍵の力』あってこそだ。通常は、ありえないことを、鍵によって解放させる。解放ってより、可能にするって言ったほうがわかりやすいかな」
少女は言葉を反芻する。
「えと、私は鍵の力で、特別な力を発揮できるってこと?」
「そうだ。わたしも君の力で呼び出されたにすぎない」
「わたしってすごいんだ」
「そう、すごいんだ。だからこそ、その力を誰かに助けるの方向にもっていってほしい。誰かを――ひいては全員を助けるくらいに、成長してほしい」
「分かった!」
「ああ、期待してる。それじゃ、まずは人助けしてくれ。社会的に弱い存在を、君のその力で助けてあげるんだ」
「ありがとう。あなたのおかげで私頑張れる気がする」
少女のその気持ちは間違いなく本心。『鍵の力』という異質な力で誰も彼も助けるという目標を掲げることができた。子どもは目標が見つかれば、それに無我夢中で、一直線に頑張りやすい傾向がある。
「さあ、ここを出て、さっさと人助けをしていきなさいな」
「ここってどうやって出るの?」
「知らなかったのか。鍵をまた、回せばいいんだ。ここに入ってきた時とは逆の方向に」
「そっか。分かった。ありがとね、えっと名前は?」
「アリスの手下って名前でいいかな?」
「うん? それってどういう」
「まあ、名前はペストどかでどうだ」
「分かった。ありがと、ぺーちゃん!」
目の前に鍵穴が現れる。そこに有栖は自分の胸にある鍵をさしこみ、さっきとは逆の方向に回して、この場所から去った。
ところで、不思議の国のアリスの結末をご存知だろうか?
アリスは女王と口喧嘩をして、女王の兵士たちに襲われる――そこで、不思議の国の物語は終了し、現実に戻ってくる。
さて。もしも現実に戻れなかったら――兵士たちに襲われ殺されなければ、夢は夢のままか、それとも現実か。どちらなのだろう?
******
有栖は人助けをするために、趣味の読書も宿題も忘れ、困っている子どもを探した。困っている子どもは公園の砂場で見つかった。
少年が泣いている。ほかにも大勢の子どもがいるが、しくしくと静かに泣いているため、気にもとめない子ども。しかし有栖は違う。すぐに話しかける。
「何かあったの?」
「ううん、何もないよ」
有栖のほうを向きながら、泣いているのをこらえようとしている。相手は女子だから、男のプライドなのだろうか。必死にこらえている。
「嘘だよね。ちょっと胸借りるね」
そうすると有栖は鍵を少年の胸に差し込んだ。
くるっと回し、心の中を覗いた。少年の心の扉を開くことでダイレクトに彼の感覚を共有してもらった。
「ストーカーに襲われているんだね?」
「ど、どうしてわかるの……!?」
「それは今どうでもいいじゃない」
本当はどうでもよくないと有栖は気づいていた。それは人助けのため――ではなく、有栖の力を隠したかったから。能力の正体を誰にも伝えたくなかった。
少女の言葉に少年はどうでもいいと思ったのか今の状況を話し出す。
「僕はストーカーに追われてる。そう親に言ったんだけど、男でストーカーされるわけがない、勘違いでしょって言われたんだ。でも僕にはわかる。これは本当なんだ。下校時間も、遊んでから帰る時間にも僕は誰かにストーカーされている」
「じゃあ、そのストーカーやっつけましょ」
今の有栖にはそれだけの力――『鍵の力』という尋常な力を持っている。だが、そんな力なかったほうが、まだ穏便に解決できる提案をしていただろう。力を入れなかった場合の有栖なら、読書によって得た知識――警察に話すなどの案を出せたのかもしれない。しかし子どもながらになんでも簡単にできると思った彼女はもう、そんな考えはなかった。
*****
男の子を連れ、わざと薄暗い場所に入る。
少年と少女と、もう一人、足跡が聞こえた。
「もう、出てきてもいいでしょ、お姉さん」
「ばれちゃしかたないわね」
ここには三人以外誰もいない。それを確信してか彼女は現れた。
手には一眼レフカメラを持っていた。
「それにしても彼女がいるなんて知らなかったわ、健司くん」
それを聞いて、少年は体ががくがくと震えた。
「どうして僕の名前を……」
「それはね、健司くん。あなたは私のものになるからよ」
その言葉を健司は理解し、あまりの怖さに逃げようとした。
しかし、子どもと大人。逃げる子どもを捕まえるのは簡単だった。少年はストーカーにつかまり、絶体絶命だと感じた。
そのとき、少女――有栖は『鍵の力』を使う。自分から出る鍵を、再び自身の体に戻し入れ、そして、回した。
体の、ありとあらゆるリミッターが外れる。すべてのたがが、成長も何もかも、身体自体が最高の身体パフォーマンスを引き出す。それはつまり体は大人になり、さらには身体的能力も全ての人類も上回っていることと変わりない。
そのまま有栖はすさまじい速さでストーカーを殴り、手放した少年を抱える。
「大丈夫かな?」
「う、うん」
あまりの急展開に少年の思考が追い付いていない――どころかストーカーも何が起きているか理解できていない。
そのストーカーに一瞬にして有栖は距離を詰めた。
「さあ、弱いものいじめ。貴女は殺されるても大丈夫よね? だって弱いものいじめをしたんですもの」
いつの間にか少年を地面におろして、ストーカーに語りかけていた。
ストーカーは果たしてこれが現実なのかと疑ってしまう。だが現実だ。こんな『鍵の力』なんてものが、無邪気な少女にわたったのだ。さんざん外部の者に注意されても、少女は正義だけを、弱いものを助けることだけを全うした。ほかはどうでもよかった。社会的に強い地位の人間は殺されるべきだという理念から、全て破綻して、この短時間でここまでの力をつけてしまった。
すべては鍵から――自分には異質な力があると知り、無邪気に相手を考えず行動するから、この結果になってしまった。
「じゃあね、お姉さん」
再び殴るだけで、ストーカーは体の機能全てが停止した。あまりの一撃に身体ごとはじけ、血が飛び散った。そのうち、半分ほどの血を有栖は浴びる。
有栖は振り返って少年にいう。
「これでもう、強いものはいなくなったよ!」
少女、有栖はこのあとも、弱いものは助けたが、強いものは正義の名のもとに殺し続けた。それが、目標だと勘違いしてしまったから。
最終的に少女は射殺さえされず、核爆弾さえも効かず、世界を滅ぼして、挙句の果てには宇宙さえ滅ぼし、一人だけになった。
そして少女は彼のところに戻る。
真ん中の鍵穴を開けて、久しぶりに彼の場所に戻った。
「ペストマスクのおじさん? あなたって弱いものだっけ?」
「……また失敗してしまったか」
「会話があってないよ」
「合わせなくてもいい。また、夢のはじめからやるだけだ。今度はどうすれば世界は君を殺してくれるんだろうね」
「何言ってるの?」
「なんでもない。わたしは弱いものじゃない。強いものだ。さっさと世界をやり直――」
「しんじゃえ」
全ては夢の中でまた殺される。そして夢は繰り返される。
果たして、有栖はいつになったら夢から目覚めるのだろうか。