第98話 試食会
名倉憲也が定年退職を迎える前年度の春に、次男が彼女と二人で「十二月に結婚することにした」と報告に来た。憲也は祝福し、夕刻だったので近所の焼肉屋で話を聞くことにした。その際に眉をひそめることがあった。憲也が「焼肉屋に来たのは十年以上ぶりくらいだワ」と言った際に、次男が「先週も焼肉食ったし、オレたちはしょっちゅうだわ」と、のたまうたのだ。そんな贅沢をしていて結婚資金は溜まるのだろうかと、憲也は危ぶんだ。
二人は住むアパートを二人の通勤に便利な場所に決めた。そしてちゃっかり前祝いとして観音開きの冷蔵庫を所望してきたので、名古屋駅近くの家電量販店まで行って二人と合流して選ばせてやった。彼女がどえりゃあ高価な冷蔵庫を選んだらどうしようと内心びくついていたが、彼女なりに値札を比較検討しながら決めてくれたので一安心。
そして間もなく、請われるままに彼女の両親に挨拶に出向き、地元で評判の寿司を振る舞われながら憲也と同じ公務員で同年令でもある父親と懇談した。その時の話で、結婚披露宴は次男の仕事の都合で翌年の三月に延期したというが、予定している式場は名古屋のど真ん中にある今流行の貸し切りの式場で、最低でも四百万円はかかるという。
嫌な予感がした。盛大にやってもらうのは結構だが、父親の懐をアテにするというのは甚だ迷惑な話だし、何より三十歳を超えて親に頼るというのも情けない話である。彼女の父親はしたたかで「この家を建て替えた際のローンは当然ながら、前の家を中古で買った際のローンもまだ残っているので退職金はそれで吹っ飛んでしまいます、ワハハハハ」と率直に堂々とぬかしやがった。憲也はその時点で腹をくくった。親が建てた老朽家屋に住む憲也にローンはないし、なけなしの貯金を剥奪されても五月末まで凌げば、それなりの退職金がドカンと手に入ることが分かっていたからだ。
ともあれ、二人は着々と計画を進めているようでその数日後に籍を入れて同居を始めた。十月になると嫁が、結婚披露宴の演出の一つとして必要らしいからと、次男の幼い頃の写真が欲しいとメールしてきた。憲也はアルバムを引っ張り出し、半日がかりで赤ん坊の頃からの次男の写真を数十枚選び出してスキャンしてUSBメモリに収めて郵送した。
そして年が明けた一月中旬、嫁からではなく珍しいことに次男からメールがきた。『二月○○日に披露宴で出す料理の試食会があるので空けといてほしいのですが、(略)。その時に○○家と名倉家とお金をいくら出しあうか話したいらしいからよろぴくです』
何がよろぴくだ、と憲也は両肩をがっくり落とした。結婚披露宴の規模をどの程度にするかは嫁次第なので、そうと確定したからにはどうしても嫁に言っておきたいことがある。
その機会はまもなくやってきた。嫁が、次男の名前の由来とか、父から見た次男はどんな子か、とかとメールで聞いてきたのだ。憲也は千載一遇の好機とばかりにパソコンに向かい、A4用紙五枚にびっしり回答を書いた。その中で、次のように書いて嫁に釘を刺し、溜飲を下げたのだった。
「名倉家にも『家訓』なるものがあります。それは、『一つ、自分がやったことに責任をもて。自分がやることに責任をもて』というものです。たとえば私は、子供がヤクザと問題を起こして私に泣きついてきたとしても『自分がやったことは自分が責任をもてと教えてきたからコンクリート詰めにして海に沈めようが臓器をもぎ取ってそれを売り飛ばそうが好きにしてくれ』とヤクザに啖呵を切って、子供を突き放す覚悟ができています」
この手紙でようやく腹の虫が治まった憲也は晴れて試食会に臨み、次男と嫁と嫁の両親の五人で丸テーブルを囲んだ。目の前には小さな文字で印刷されたメニューが置かれていたが、老眼鏡を持参しなかったので二つに折ってポケットに収めた。デザートが出たので仕方なくこちらから費用のことを切り出すと、嫁が名女優のごとく「半分くらいしかお金を貯められなかった」と申し訳なさそうな顔で言うので、憲也は先方の両親にも聞こえる声で、足らない分は出させていただく、と、きっぱり言い放ったのだった。
その帰り際、嫁の母が憲也にバレンタインチョコをプレゼントしてくれた。妻を十年以上前に亡くしている憲也は丁重に受け取ったが、内心ではその義理チョコは迷惑以外の何物でもなかった。メタボ腹の憲也はチョコレートなど滅多に口にしなかったし、どうせ、どんな高級チョコレートでも所詮チョコはチョコだろうがと高を括っていた。
ところが、この日本製の生チョコレートは想定外の味がした。つまるところ意外にウマイいのだ。持ち帰った試食メニューを老眼鏡をかけて眺めながら口にふくむと、これまで一度も味わったことのない絶妙な味が口中に広がった。
試食会で食べた、北海道産帆立貝と鮮魚のサラダ、オマール海老のフラン、真鯛のボワレ、ハーブの香る茸のボルドレーズ、和牛フィレ肉のステーキなどのコース料金が、四クラスあるうちの下から二番目ということが分かり、この嫁が見栄っ張りなようでいてなかなか堅実な側面があることを発見すると、口の中でチョコレートが溶けていくかのごとく、嫁に対する不満が氷解していったのだった。
(『あじくりげ』平成25年5月号に掲載)




