カニ増える。
その日空から無数のカニが降り注いだのは、ファフロツキーズでもなく、神の怒りでもなく、当然モンスーンのせいでもなくって、誰かの妄想のせいだと思う。カニ増える夜もあって良いかと誰かが思ったから。
カニ増える。
貴方が好きですと言われた。惰性で続けてきた剣道クラブの稽古終わり、臆病なはずの彼は私の目をしっかりと見つめていた。
間合いだ。彼の剣先は私の喉元を捉えている。喉を鳴らしてはならない。肩を揺らしてはならない。なんと言えば良いか、考えるより前に私は後ろ足で床を蹴って軽く跳ねた。
カニ増える。ハサミを振り上げながら。
しかして彼は引かなかった。鍔迫り合いだ。押して引いて、契機を見つけて相手の篭手を下に押し込めるのだ。間髪入れずにふっと力を抜いてやると慌てて面を守る。がら空きの胴に横一閃.......。
「突然、すいません」
彼は私の腰に手を回す。反則だろう.......審判は何をしているんだ、止めてくれ。いや、そうか.......いないんだ。審判なんて。それどころか他の剣士たちもいない。面も胴も付けていない。竹刀は無いのだ。今ここには二つの身体がぴったりとくっついているだけ。
カニ増える。横歩き。前にも後ろにも行かず。
何故だろうと思った。皆はまずおかしいと言うだろうがそんなことはどうでもいい。私自身はおかしいかどうかは気にしていない。ただ、何故かわからない。彼がそういう素振りを見せたことなんてあっただろうか。
「隠し通すつもりでした」何故か。
「ただ、一緒に稽古ができていればそれで良いと思っていたんです」ああ、だから。
「急すぎるんですよ」そうだね。
私の惰性は今日で終わるのだった。もう前を向いて歩かなくては行けない。春だからとか、卒業するからとか理由をつけて綺麗に終わるのはズルい気がして嫌だった。
カニは明日も増える。だから私は泡を吹いても、前へ前へ。ただ向くのでなく。グーを出されてヘコヘコするのでは無く。そう決めた。
「ズルいですね」そうかな。
「後を濁さない努力とか、有終の美とか、そういうのが恥ずかしくなっちゃっただけじゃないですか」確カニ。
「だから」だから?
「濁ったものをぶつけてやりたくて、ぶつけてヤりたくて」馬鹿だなあ。
もっと強硬手段に出りゃよかったのに。いくじなし。.......なんだよ、黙るなよ。
「今までありがとうございました」こちらこそ。惰性だけど良い時間だったよ。
カニ増える。ハサミを振りかざして。握りこぶしに立ち向かった。勝ち目のない戦いだ。
私は出来なかった戦いだ。
とりあえず着替えましょうか。汗を拭って私達は更衣室に入った。
カニ増える。カニ増える。夜になると空から降って地上を埋めつくす。前にも後ろにも行けないカニ達は、小さなハサミを絡ませてぐちゃぐちゃになる。誰かが妄想した夜にカニは増える。