冬
冬になったら雪が降るものだと幼い頃は思っていたのだけれど、二十歳を越した今果たしてそういった年が何度あったかと数えてみれば、両の手で足りる程度だ。残念がっていた僕もかつてはいたが、寒気は日本の背骨で向こう側に雪を落としてくるとかなんとか理屈を知ってしまって、気づけば雪のない事に何を思うこともなくなった。白く寒い外に向けられていた興味は赤く暖かい中に向けられるようになり、交通の便の影響を考え出して「降らなくてよかったね」などとのたまいながら、かじかんだ両手を擦り合わせて暖かいコンビニエンスストアへと入っていく僕の中に、あの日の幼き少年はもういない。
雪は降らなくても気温は寒い。夜にもなれば尚更だ。僕は深夜零時、暖かい飲み物が欲しくなって近所の自動販売機に向かった。庭には主のいない犬小屋が並び、二台分の駐車場は片側が空いている。小銭をポケットでジャラジャラ鳴らしで歩いてみると、静まり返った住宅街は知らない場所のようだった。音は僕の足音と小銭だけ。風さえもが冬の寒さから身を隠していた。
このまま帰らなければ……自動販売機への数分の道のりでいつも考える。振り返って家を見る。両親は寝ている。僕の外出に気づくことはないだろう。今ここで、ただ僕が"その気"にさえなったならば、日常は終わる。でも僕はそんなことはしない。だって、それが普通であるし、当たり前のことだから。案外世の中の大半はこの程度の、根拠の無い普通や当たり前なる意識に作られた見えない檻なんだと最近わかってきた。妄想だろう。しかし浸るのは自由だ。僕はこの妄想が好きだ。危うくて、いつはじけるかわからない世界で生きているというのは、あまりにも怖くてあまりにも魅力的だった。
背骨の向こうに行ってみても良いかもしれない。今買った缶コーヒーと釣り銭しか持っていないが、行ける気がしていた。吐く息は白く消えていく。久しぶりに見た冬の白だ。僕は家に帰ることにした。
扉を開けると寝転がった母がいる。横を通る時「遅かったね。飲み物買ってきたの?」と聞かれたので缶コーヒーを一本渡した。今夜はよく眠れそうだ。