空を飛ぶ足音
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る。芭蕉の句だ。彼の辞世句で、長き旅の果て病に伏し、真の大成間近で世を去る大俳人の無念と悲哀を感じる名句であるとされている。私はそんなことは無いだろうと思っているんだけど、父や母や先生が言うのできっとそうだ。間違っているのは私。あるいは……
「早く来いよ。行っちまうよ……ほら、ほら」声が聞こえた。気怠げに歩いて向かうわ。何もこれっきりのものでもなし、息を切らして追っかけるだけ損だ。どれ、聞こえるかな。
とっとっとっ、と……ああ、聞こえた。あんな高くに行ってしまった。私は「足音」をじっと見つめる。文脈としておかしいか。いやおかしくはないんだ。だって本当に空を飛んでいるんだ。太郎も私の横でぼんやりと見つめている。間抜けな顔だ。
「なんで飛ぶんだろうなあ」太郎が聞いてきた。知らないよそんなの。飛びたいから飛ぶんでしょ。「そりゃそうだけどな」うん。「おかしいじゃん」何が。「普通飛ばないじゃん?」なんでよ。「なんでって」
誰が決めたんだよ、飛べるとか飛べないとか飛びたいとか飛びたくないとかさ。そんなの足音の勝手よ。私は思い切り背伸びして太郎の背中をひっぱたく。「あぶねえな!」躱された。「飛んでみたいじゃん。こんなところじゃさ」空を見た。空を見たのに、空は見えなかった。
私たちは芭蕉だ。掴みかけた世界は今の私たちには遠すぎて、きっと力尽きてしまう。あの空は空じゃないんだ。アレの正体は冷たい土壁だって、ここに住む人間はみんな知っている。夜になれば月が昇り、時には雲がそれを隠して、薄明かりに街は包まれたりする。だけどそれはむかしむかしに貼り付けられた有機ELディスプレイが映し出すホログラムだから、どれほど美しくとも血の通わない虚像だ。芭蕉は夢に枯野を見たが、私たちは全てを見た。空も風も太陽も月も、何も無いのだから。
行きたくないの?行ってみて、風に吹かれてみたくはないの?私が尋ねると太郎はただ一言「無理だよ」とだけ言った。足音は飛んだのよ。軽やかに、縛られることなく、どこまでもどこまでも、空を超えて空を目指したのよ。
「アレは、お前みたいな奴の妄想が作っちまったまやかしなのかもしれないな」
太郎を殴った右拳を擦りながら家に帰った。夕飯はビーフシチューだった。残したニンジンをもそもそと食べていると、バタバタすごい音がした。お母さんは「まだ飛べない足音が走り回っているわ。今日は早く寝なさいね」と言って雨戸を閉めに行った。返事をしながら私は、もう少しだけこの不細工な足音を聞いていたいなと思った。
翌朝太郎の死の報せを聞いた私は、左で殴れば良かったかしらと思いながら、学校をサボって昨日太郎と足音を見に行った丘までかけて行った。やっぱりそこでバタバタしていた。
ごめんね。バタバタ。ありがとう。バタバタ。行くの?バタバタ。きっと気持ち良いと思うよ。バタバタバタバタ。うん。私もそんなにしないでいくよ。……足音が止まる。
怖くないの。強がりじゃなくて。みんなは足音を執念と考える。届かないかつての空に、体を無くしてなお行きたいと思う気持ちだと。私はそうは思わないんだ。芭蕉は無念なんて込めなかった。大俳人が最期の句に無念なんてこめるかって。本当に彼はかけ廻ったの。病に伏しても夢は抑えられない。置いてかれても、老いて枯れても、旅に病んでしまったから。何言ってるかわかんない?いいのいいの。こんなの自己満足よ。やっぱりおかしいんだ。でもきっと、私と同じくらいこの世界もおかしいんだよ。だからさ、別にいいじゃん?ほら、さっさと行っちゃえ!
足音はどこまでもどこまでも高く空を飛んで、やがて空の彼方へ消えてなくなった。地下空間では吹かないはずの風が、私の頬を爽やかに抜けた。