第6話
春野さんを見送った後、僕は駆け足で1DKの自宅アパートへと戻るとすぐさま友人の夏目に電話をかけた。
数コールで電話口から夏目の声が聞こえてくる。
『もしも……』
「やったよ、夏目!」
『し』と言う前に、僕は彼に喜びをぶちまけた。
『……なにを?』
電話口の夏目は明らかに困惑している。
「今朝言ってた、例の女性! 帰りの電車で会ったんだよ!」
『え、マジか』
「で、で、向こうから声かけてきたんだ!」
『え、マジか!?』
「で、さっきまで一緒にいた!」
『え、マジか!?』
さっきから夏目は『え、マジか』しか言っていない。電話のトーンはだいぶ低いが、かなり驚いているようだ。
「ケータイ持ってないみたいだけど、僕の電話番号教えといた」
『やるじゃん。向こうから声をかけてきたってことは、かなり脈ありだよ』
「そう!?……フゴー。やっぱり、そう!?……フゴー」
『落ち着け。鼻息で音が割れてる』
「あ、ごめん」
僕は耳に押し付けていたスマホを少し離した。
少しばかり、興奮から冷めてくる。
『……で、なんて子? どこに住んでるんだ?』
「うーん、言えない」
『え、なんで!?』
「お前に取られたら嫌だ」
『とるか! 秋山、お前オレが友人の好きな相手を奪うやつに見えるか!?』
「お前が奪わなくても、向こうがお前に惚れたら嫌だ」
『あ、そうか。それはあり得るな』
「否定せんのかい! ふんだ、絶対教えない」
『ははは、わかったわかった。とにかくよかったな』
「ありがとう、夏目」
それから少しばかり今日のことを話して、電話を切る。
この嬉しさを夏目に報告したことで、さらに今日の出来事が現実だったんだなという実感がわいてきた。
本当に、今日は最高の日だった。
その夜、僕は夢を見ていた。
自分で夢の中とわかる、不思議な夢だった。
白い雲の上だろうか。
どこかよくわからない真っ白な場所に、僕はポツンとひとりでたたずんでいた。
辺りを見渡しても誰もいない。
どこだろう、ここは? と思う間もなく、背後から声が聞こえてきた。
「秋山さん」
振り向くと、真後ろにはいつの間にか春野さんがいた。
今日、出会った時のままの彼女。
まさか夢の中でも会えるなんて。
僕の心は喜びでいっぱいに溢れる。
けれども、そんな喜びもつかの間、彼女の悲しげな表情を見て僕は不安になった。
「春野さん?」
声をかけても返事をしない。
ただ、黙って僕の顔を見つめている。
なんだろう。
どうしたんだろう。
大きな不安が僕を包み込む。
「秋山さん」
ようやく、春野さんが口を開いた。
「な、なに?」
ドギマギしながら尋ねる僕の目の前で、突然彼女の青い瞳から大粒の涙がこぼれ出した。
「え!? な、なに、どうしたの!?」
慌てふためく僕に、彼女は絞り出すような声で言った。
「秋山さん。ごめんね、本当にごめんね……」
「ごめんて、なにが?」
泣きながら謝る彼女の姿に、大きな不安が僕を包み込む。
「わたし……」
けたたましいコール音が鳴り、僕は目が覚めた。
時刻は夜中の11時50分。
コール音はスマホからだった。
慌ててスマホを手に取ると、相手先は「公衆電話」となっていた。
まさか、と思いながらベッドから飛び降りて電話に出てみる。
柔らかな甘い声が響いてきた。
『もしもし、私です』
「は、春野さん!?」
夜中にも関わらず、素っ頓狂な声を上げる。
ヤバい、と思って慌てて口元をおさえた。
ビックリした。
まさか、今日の今日、すぐに連絡を寄こすとは思っていなかった。
それよりも門限は大丈夫なのだろうか。
『すいません、こんな時間に。どうしても今日のお礼が言いたくて』
「あ、いえ。こちらこそ。それよりも大丈夫? 今、外にいるんじゃないの?」
『ええ。家の電話は使えないから……。こっそりと外に出てかけてます。親が寝るのを待ってたらこんな時間になっちゃって』
その一言に、僕はたまらなく嬉しくなった。
そこまでして、電話をかけてくれたのか。
「あの、今どこですか? よければ行きますよ!」
会いたい、という気持ちが強かった。
けれども春野さんは一瞬沈黙した後、『大丈夫です』と答えた。
『もう夜も遅いし、寝ますから。それで、今電話したのは……』
なんということだ。
彼女はこう言ったのだ。
『また明日、会いませんか』と。
今度は、時間と場所を決めて、街を歩こうということだった。
これはもう、デートのおさそいというやつではないか。
21年間夢見た、女の子とのデートだ。しかも、僕が一目惚れしたとびきり可愛い子との。
幸い、明日は土曜日で大学の講義はない。
僕は「喜んで」と上ずった声をあげた。
『じゃあ明日10時に、かしわ駅前で』
彼女の言葉に、有頂天になる。
通話終了後も、僕は夢ではないかと疑っていた。
本当に。
本当に、明日デートするのか。
信じられず、何度も何度も通話履歴を確かめると、確かに11時50分に「公衆電話」となっている。嘘ではない。
僕はポーッと放心しながらも、慌てて明日着ていく服をクローゼットの中から引っ張り出したのだった。