第3話
もしも奇跡というものがあるのなら。
それはまさに今、この瞬間に違いない。
大学の講義が午前中で終わり、午後は休講の案内があったため、僕は帰りの電車に揺られていた。
するとなんということだろう、駒大駅であの女性が乗ってきたのだ。
ウソだろ?
本当に?
あまりにびっくりし過ぎて、唖然となる。
嬉しさとか、喜びとか、そういったものを超越していた。
彼女はふわりと電車に乗ってくると、シートの端に座る僕に目を向けて動きを止めた。
バッチリとまた目と目が合う。
ボンッと自分の顔がまた赤く染まるのがわかった。
まずい、また変な人だと思われる。
僕は慌てて顔を下げた。
足だけしか見えなくなったが、彼女はちょこんと僕の向かいのシートに座った。
マジか。
そのまま顔を上げることができず、僕は緊張したまま電車が走り出すのを待った。
時間が時間なだけに、車内の乗客はまばらだった。
僕の意識は、どうしても真向いに座る彼女へと向いてしまう。
どうしよう。
大学での夏目との会話が思い出される。
「次、会ったら声をかけろ」
そうだ。
声をかけろ。
今ならチャンスだ。
しかしあの時の勢いはどこへやら。
僕はモジモジと自分の手を見つめるだけだった。
あまりの情けなさに泣けてくる。
けれども、声をかけて車内で声をあげられたら。
「助けて」と悲鳴をあげられたら。
そう思うと、そのはじめの一歩が踏み出せなかった。
うつうつと考えているうちに電車はどんどん進んでいく。
僕は怖くて一度も顔を上げることができなかった。身じろぎひとつしない、彼女の足をただ見つめるだけだった。
そうこうするうちに、電車は僕の降りる駅へと到着した。
数人しかいなかった乗客が、さらに降りていく。
どうしよう。
降りようか。
一瞬迷ったものの、僕は夏目の言葉を思い出した。
「男ならがーっといけ、がーっと」
そうだ、男ならがーっといくべきだ。
僕は覚悟を決めた。
「よし、彼女の降りる駅に降りよう」と。
なぜか「この人だ」という直感があった。
その想いは、ある意味ストーカーに通ずるものなのかもしれない。
しかし、この決意は変わらなかった。
プシューという音とともに扉が閉まる。
降りるべき駅で降りなかったことで、いよいよ僕の決意は固まった。
終点まではあと数駅。
電車は都心部からどんどん離れ、郊外へと向かっていた。
正直、ここから先の駅は降りたことがなかった。
彼女がどこで降り、どこへ向かおうとしているのか、皆目見当がつかない。
電車は、ガタンゴトンと軽快なリズムに乗って突き進んでいく。
チラリと目だけを向けると、彼女はうつむきながらギュッと唇を噛んでいた。
その表情がとてもきれいで、僕はドキドキしてしまった。
なんだろう、とても不思議な感じだった。
今日、初めて見るのに初めてではない感じ。
こんな経験は今までになかった。
『あおい町、あおい町』
ひとつの駅に到着するたびに、僕は緊張した。
彼女が降りるのではないかと、鞄の紐を手で握りしめる。
けれども、彼女はどの駅でも降りる気配を見せなかった。
それにホッとする自分と、早く降りてこの緊張から解放されたいと願う自分がいた。
けれども、それは決して嫌な気持ちなどではなく、どこか夢の中にいるかのようだった。
できるなら、この時間が永遠に続けばいいとさえ思った。
そんな夢見心地の中で。
電車は終点の駅へと到着した……。
終点の駅で、僕は途方に暮れていた。
向かいに座る彼女が、まったく降りようとしないのだ。僕もそれで降りるタイミングを逸し、シートから離れられなくなってしまった。
お互いにシートに座ったまま、じっとしている。
まるで、時が止まったかのようだった。
身じろぎひとつしない彼女に目を向けると、彼女はじっと僕を見つめていた。
まるで何か言いたげな顔をしていた。
その瞬間、僕の中で大きな後悔が一気に押し寄せてきた。
まずい。
まずいまずいまずい。
もしかしたら僕が追いかけようとしていることに気が付いたのかもしれない。
今さらながら、僕は自分がしていることに気が付いた。
彼女に一目惚れして追いかけるなんて、これでは本当にストーカーではないか。
ヤバい奴以外の何者でもない。
「追いかけてこないでください」とか「警察呼びますよ」とか言われても仕方のないことだ。
僕は慌てて電車を降りた。
あとに続いて彼女も電車を降りる。
ああ、完全に僕を意識している。
冷や汗たっぷりで逃げ去ろうとする僕に、彼女が後ろから声をかけてきた。
「あ、あの……!」
「はい?」
顔を向けると、彼女は何か物言いたげな目で僕を見つめていた。
ああ、ヤバい。
ギュッと鞄の紐を握りしめて身構える。
しかし、彼女の放った言葉は予想外のものだった。
「い、今、お、お暇ですかっ!?」
「え……?」
なんだ?
何を言っているんだ?
突然のことで思考が停止する。
「あ、あの、私、この駅で降りたことがないんです! よ、よろしければ、案内! 案内してくれませんかっ!?」
「は?」
聞き間違いだろうか。
僕は彼女の言葉を頭の中で反芻した。
この駅で降りたことがない?
案内してくれ?
ポカンとする僕に彼女は顔を真っ赤にしてうつむいた。
「あ、ごごご、ごめんなさい! 見ず知らずの人に、こんなことお願いして……」
その仕草が、もう完全にドストライクだった。
あまりの可憐さに、心の中で悶えてしまう。
「い、いえ。僕も」
声がうわずった。
「僕も初めてなんです、この駅」
「え、そうなんですか?」
パッと顔を上げるその顔の眩しさに目がくらむ。
「あなたを追いかけていたらここに着いたんです」と言いそうになって慌てて口をつぐんだ。
あれこれと視線を巡らせると、駅のホームの看板が目に止まった。
桜並木公園。
どうやら、それがこの近くにあるらしい。
「さ、さくら……」
「え?」
「桜並木公園。そこに行こうとしてたんです」
大きなウソをついた。
そこがどんなところか、まるでわかってもいないのに。
「あ、そうなんですか……」
「そうなんです……」
「……」
会話が止まる。
「一緒にどうですか?」
その一言が言えない自分がふがいない。
ぽつりと彼女は言った。
「行って、みたいなあ」
聞き間違いではなかった。
確かに、彼女はそう言っていた。
その一言に背中を押されて、僕は勇気を振り絞れた。
「一緒に、行きませんか?」
そう誘ってみると、彼女は嬉しそうに「はい」と微笑んだ。