無能な自分にできること
……子供の泣き声で、目が覚めた。
この、胸をかきむしる妙な響きで、僕は痛い目をみたような。
今日だけじゃない。
昔も、そんなことがあった気がする。
「よう、間抜け」
ただでさえ癇に障る声の中に、むさいおっさんの声が混じって気分は最悪だ。
自分が仰向けに倒れていることだけが分かり、ゆっくり目を開けば、映るのは空と髭。やはり最悪だ。
「馬鹿だなお前。あんなチンピラ、はっ倒すくれぇできんこともなかろうが」
そう言ってこちらを見下ろすのは、一昨日から妙に絡んで来る髭のおっさんだ。
視線をちらと横に向ければ、未だに泣いている二人の子供。姉に抱き着いている少年と、弟を抱き寄せる少女。
……無事だったんだろ。なんでまだ泣いてる。その声は嫌いなんだ。口を閉じろよ。閉じてくれ。
「できませんよ……僕にはなんもできやしない」
実際、僕には何もできなかった。
別に何かしようと思ってあの場に割り込んだ訳じゃない。理由も、大義もなかった。ただ、足が勝手に動いただけだ。
本当にうすらみっともない真似をしたもんだと、今はそう思っている。
別にこんな子供を助けたって、何か見返りが期待できたわけでもなかろうに。馬鹿だな。
子供たちが無事だったのも、このおっさんがどうにかした結果なんだろう。
なら、それだけの話で、おしまい。それでいいじゃないか。
結局僕は、無駄にしゃしゃり出て無駄に殴られた、おっさんの言うとおりのただの間抜けだ。
だけど僕を間抜けといった当の本人が、そんな僕の言葉に否を突き付けてきた。
「んなーこたぁない。見てみろ、ほら」
そういって顎をしゃくる髭面につられて目線だけでなく顔も動かせば、ビクリと子供たちが震えた。
ようやく泣き声も収まってきて、あのどうしようもない焦燥感と不快感も収まってきた。……静かになったな。これならいいや。
……改めて顔を向かい合わせた今、子供たちは落ち着かなげに繋いだ手を揺らし、口を開いては閉じるというのを繰り返した。
怯えてるんだろうかな。
……ボコボコにされたから、気持ち悪い顔してるだろうからね、しょうがないね。まあ、元がいいわけでもなかろうけどね。
顔半分は、この街で気が付いた時には既に包帯でぐるぐる巻きだったし。
そう思っていると、ようやく決心がついたらしい姉の方が、胸の前で空いた拳を握り、言う。
「あ、ありがとうおじさん!」
少年の方も、あぃがと、と蚊の鳴くような声で続けた。
…………。
…………?
なんでお礼? 僕、なんもできなかったじゃん。
いまいち分からず、バッカスさんの方に目をやってみると。
「少なくとも、一つは出来たじゃねえか。お前は、感謝されるようなことをしたんだよ。このガキどもの目にゃ、お前は英雄に映ったろうぜ」
「……英、雄」
その単語が耳に入ると、理由の分からない拒絶感が沸き上がってきた。
――馬鹿な事言いやがる。何が英雄だ。ふざけんなってんだ。僕は英雄ってのが大嫌いなんだよ――
……ん? 別に、悪い言葉じゃないはずなのに。
なんで嫌いなんだろう……?
ぼけっとした僕を見かねたのか、おっさんが無理やり右手を掴み、立ち上がらせてきた。
一瞬足がふらついたものの、一度立ってしまえば特に気になるところはなかった。
最悪なのは、男と手を繋いだことだ。むさいおっさんにしっかと手を握られて気分のいいはずもない。
ニヤつきながら、おっさんはこちらを肘でせっついてきた。
「ガキどもがありがとうってよ。お前はどう返すべきか分かるか?」
「子供をあやすような言い方、やめてくださいよ」
「俺から見りゃ、お前らさして変わんねえよ。ガキが一端ほざいてねえで、ほれ、ほれ」
……初対面の時から思っていたが、口汚い人だ。悪い性質ではないんだろうけど。
……このおっさんとは、ウマが合わない。そんな気がする。
急かしてくる髭に苛立ちながら、未だに緊張している様子の子供たちに改めて顔を向けた。
「まだ、おじさんって年じゃないよ……多分」
困った挙句にそう言うと、三人が三人ともキョトンとした表情になって、しまいにはゲラゲラ笑いだした。
失礼極まりない。
――――――――――――――――――――
子供たちが立ち去った後、バッカスは苛立たし気に口を開いた。
「お前な、あんな雑魚にやられてんじゃねえよ」
曲がりなりにも、こちらの肝を冷やした相手だ。あんなザマをさらされては、こちらの沽券にかかわる。
髭の中年は身勝手にもそんなことを考えていたが、若白髪からはやはり面白くもない言葉が返ってくる。
「しょうがないでしょうに、僕ってば弱いし、喧嘩なんてできませんよ。したくもなかった」
人の右足をえぐっておきながら、よくもそんな事が言えたもんだ。そっちが覚えてないにしても、こっちの体は忘れちゃいない。
しかし。
「弱いだの出来ないだの、お前はそんなんばっかりだな。馬鹿やろが、言霊ってもんがあってだなあ……」
悪いことを口にし続ければ、それは自己暗示となり、自分を縛る。それは悪しき習慣だ。
逆の事をしろ。自分は凄い、強い、偉い。そう言い続ければ、自然と自分はそうなっていく。
そう言えば、若白髪は不貞腐れたように顔を歪めた。
「貴方は……強い人なんですねえ」
……それはまるで、強くあることが忌むべきことであるかのようで。
強くあろうとしたことで、何か致命的な失敗を犯した者を知っているかのような。
……だが所詮、こちらの知らぬ話だ。
己は、自身の揺らがぬ信念として、強くあることを望んでいる。
誇りのない人生など御免だ。そして誇りとは、強さがなければ傷つけられるものだ。
故に、胸を張って自分はこう言うのだ。
「当たり前だ。オレを誰だと思ってやがる」
「バッカスさんでしょ。それしか知らない」
「十分だ、それだけ知っとけ」
言い捨てて、バッカスは踵を返した。
……素面のこいつとは、どうもウマが合わない気がする。
今度会う時はどれだけ嫌がろうが、酒を口の中にぶち込んでやる。そんなことを考えながら。
……ふと、思った。
強い、自分をそう評した者は何人もいたが。
先ほどの男と同じように、その事を揶揄するように言ったのは、知る限り一人だけだ。
――貴方は強いから、弱い者の気持ちが分からないのよ。そうでしょう――?
リリィ・スゥ。
まったく使徒らしからぬ使徒だった。いったい今は、どこで何をしているものか。
あの物乞いの様子などみたら、すぐさま保護しようと働くような、そんな偽善と……純善に満ちた奴だった。
あの女は、天に輝く満月を、まるで大きな穴だ、吸い込まれそうだと言った。
あの物乞いが太陽にそう感じたように。……あいつにとっては、たとえ昼中であってもこの大地は暗い穴倉でしかなく、向こう側にこそ光があるとでもいうのだろうか。
……つまらん考えだ。だからあんな暗い面になるんだ。
そういや結局、アイツ、名前も知らねえままだな。
自分の事も曖昧だとか抜かしてたが、まさか名前くらいはあるだろう。
今度会った時にでも聞いとくか。