Hopeless hope in Hope 16
◇ ◇ ◇
少し、時間をさかのぼる。
ソプラノが、この薄暗い場所に走り至る直前の事。
――へたり込んだままのフラウトを、クリス・シュヴァルツヴァルトは見下ろした。
笑う。笑おうとして、引きつり、それを消そうとして、顔面の左右対称に力を込めていく。
結局面に浮かべるのは、右目が三日月のように、その口も弧が上を向いた三日月のように、あまりにも歪みの少ない曲線が並ぶ、精密に作られた道化の表情。
それをしかし、盲目の少女は見ることが叶わない。見る必要も、価値も、いずれもない。
かつて嘘つきだった男が、昔以上に取り繕うのが下手になっての有様が、この気持ち悪い、出来損ないの笑顔である。
笑いながら、男は思う。
『嫌わないで、逃げないで、怯えないで』ではない。
……昔は、もしかしたら、こんな時にそう思ったこともあっただろうが、今は、そんな事を考える能力も、気力も。そう思える地盤もない。
この街に来た時には確かにあった、真人間になろうという前向きな気持ちは、ついさっきまでの自らの振舞いを鑑みて手放した。
未だに、記憶は完全には戻らない。だけど、今までどうやったって取れなかった頭の中のもやもやが少し晴れたことで、確信した。
自分の旅の目的の一つ、記憶を取り戻す方法が明確になった。
なってしまった。
――そういえば、あの時もそうだったじゃないか。今なら思い出せる、ヒミズ、アイツの腕を食べた時もそうだ。
今に至っては、随分と爽快じゃないか。調子が良いのだ。気分は最悪でどん底だが、体調はすこぶるよろしいもんだ。
何故か。
何故かと言ったら、人を食ったから。
今気づいた。僕はずっと、食べたかったんだ。肉を。他のどの種類のものでもない、この手の肉を。
頭の後ろ側でざわめくもう一人の僕は、こうやって、遠慮なしに人を食べられるチャンスを喜んでいたんだ。
言い逃れなんか出来やしない。あの時、チンピラが襲い掛かってくるときに。間違いなく僕は、怯えていた筈なのに。
正当防衛とかじゃない。何が何でも、折角のこの御馳走を逃がしてなるものかと、舌なめずりをしていた僕もいた。
フラウトちゃんを助けるのを言い訳にして、僕は、人を食べたんだ。
彼らは人間なんかじゃないって、そんな欺瞞を繰り返して。
だって食べたくて仕方なかったんだ。
お腹が減って仕方なかったんだ。
どんだけ食べても足りない。
だってまだ食い足りない。
この口で齧った。
左腕からもだ。
もっと欲しい。
もっと。
……傑作だ。僕は自分を徐々に取り戻している。人間を食う事で取り戻しているんだ。
確かに自分は、記憶を取り戻したいって、そう思っていた。間違いなく。
自分が誰かも分かんないで、なんでこの国にいるのかも分かんないで、そんなの耐えられないじゃないか。
だからと言って。神様、こりゃあんまりだよ。やっぱり嫌いだよアンタなんか。
悪趣味な御伽噺にもならない。学者さんになりたいからって、学者さんの脳を食って賢くなる奴がいるか? 美人さんになりたいからって、美人さんの顔を食って美貌を得る奴がいるのか?
人間になりたいからって、人間を食う奴がいたら、そいつは間違いなくただの化け物じゃないか。
……ひひ。わざとらしい。自虐じみた思考なんかしてやがる。反省なんかしてない癖にさ。
だって、僕は卑しい。
だって、それでもまたあれを食べたい。
記憶はなかれど、人倫の基準まで失くしたわけじゃない。たとえどんな状況であろうと、同族を食うだなんて、そんなのは悪徳の極みだってくらい分かってる。
でも食べたいのだ。油っけと癖が強くておいしかった。あの、独特の、これ以外のどんな食べ物でも持ち得ない臭いが癖になってる。
火を通さなくてもおいしいだなんて、貴重なだけはあると。そんな感心すら覚えている。
……こんなのはもう嫌だ。思考が、最悪の欲で支配されてる。口が勝手に反芻してる。あの、肉を噛み潰したときの快楽を。
僕は。……僕はもう、人の味を覚えちゃった。
あの方の言いつけを守るってのすら言い訳だ。全部言い訳だ。
これ以上あんなことしたくないから、僕は喉を裂いたのかもしれない。
でもあんな事をもっとしたい僕が、僕の本質であるのなら。
……ああ。でもいいか。もう言い訳しなくていい。
だって、今のままなら傷つかなくて、いいかも。
フラウトちゃん。僕はね、君を助けようとして、こんな事をしたんじゃないんです。
そんな立派な事、僕には出来やしないんです。
だからほら。
嫌ってください、逃げてください、怯えてもいいんです。
最初から諦めていれば、傷つかずに済む。所詮僕は、こういう極端な、汚いやり方しか知らない。
何せ僕は、さっき宣言したとおりの、人間の最下層だ。
……いや、もう今となっちゃ、それすらも疑わしいけれど。
こっちのことなんか気にもせずに、ほら、一目散に逃げて。転ばないように。
追いかけたりはしないから。信じなくてもいいよ。ひひひ。
だからイヤリングとか、落とさないようにね。呼びかけられても、振り向いてはいけない。
怖い人食いの熊さんが君を捕まえないように……。
――フラウトの映らない眼球は、確かに男の方へと向けて瞳孔を動かした。
視覚の代わりに発達した聴覚は、彼の表情は捕らえることはできない。
男は喉の傷の所為で、一言もしゃべることない。
ただ、は、はあ、と。
切れ切れに笑いを含んだ息を、口と、喉の裂け目から零すだけだ。
余人が見れば、食人鬼が少女を襲おうと舌なめずりしているようにしか見えない。
しかし、当の少女には何故か、男が悲しんでいると、そのように思えた。
勿論、彼女はただの少女だ。人並み以上にか弱い。
恐怖がある。先ほどまで襲われていたこと、そしてそれ以上の恐ろしい惨劇を生み出した食人鬼と相対したことで、股間の温い湿り気の存在を否定できない。
だけど、フラウトの目は光を映さぬ代わりに、余人に見えぬ何かを、その時確かに捉えた。
少女は右手を伸ばそうとする。震える。力が、入らない。腕を持ち上げようとして、だけど小指が裾に引っかかって、それすらも気づけない程、少女は確かに怯えていた。
だけど、恐怖を上回る衝動が少女の中にあった。
男が、自身に感じている絶望を、少女の盲いた目は見つけてしまった。
あまりにも哀れで、あまりにも、そう、正しくそれは同情で、この人を抱きしめてあげないといけないという使命感が、幼い少女の胸に沸きあがっていた。
手を伸ばそうとして、しかしなお彼女の手は、男に届かない。
その代わりに男が、優しく少女の頬に手を伸ばした。
ゴロツキに殴られ、未だに赤らんでいるそこを、いたわるように。
ああ、だけれども、その行為に少女が感じたのは、やはり恐怖。
使命感は、溶けて、萎びて、涸れていく。
あの、骨を齧り取る音が。眼球を舐めしゃぶる音が。
男が人間を喰らった時の音が、弱者を甚振った時の楽しそうなあの聖歌が、彼女の耳から離れない。
だって彼は歌ったのだ。まっすぐな道が敷かれますようにと。自分と一緒に口ずさんだ時と寸分たがわない調子で、楽し気に。
彼女は未だに、地獄にいた。
だけど、彼は手を伸ばしたのだ。
ならばと、そう思って。
フラウトは、彼の頬があるだろう方に向けて、自らも手を伸ばした。