Hopeless hope in Hope 15
私に飛びついてきたフラウトからの言葉は、ある種予想はしていたものの、可能性が低いだろうと見込んでいた種類のものだった。
「やめてください……お願いですから、クリスさんをそれ以上傷つけないで!」
「……フラウト?」
「喉を触っちゃダメです、その人、怪我してるんです! お願いですからソプラノ様、その人をはなしてあげて……っ!」
その言葉に。思わず、男の喉元に意識を向ける。
そこでようやく男が教団支給の服を着ていること、さらに押し付けている手首の辺りから、妙にぬらついた感覚があることに気付いた。
「……誰なんですかコイツ。私は、この大事な日に、貴方が誰かを探しに外に出たまま戻ってこなかったと聞いていますが」
「こ、この人は私の、……えと、私の歌を聞いてくれてた人です。怪しい人じゃない、んです」
「つまり、あなたの探し人であってるってことですか? 見つけられたってこと?」
「……」
僅かな逡巡ののち。
フラウトは、ゆるゆると首を縦に振った。
「この……男性が。あなたがこの間言っていた、『優しい人』? それで間違いはないんですか?」
「……はい」
はあ、と溜息一つ。
私は、フラウトと会話を続けながらも、この男から目線を一度も切ってはいない。
いつ飛びかかってくるものかと思っていたが、しかし相も変わらず無気力に項垂れたままの男。
それでもふるふると震えるフラウトの視線に負けて、警戒をそのままに、手の力をゆっくりと抜いていく。
そのまま指を滑らせ、男のボタンで留まっている襟元を開くと、確かに傷が見えた。横一線、ナイフで切り裂いた様な痕。
だけど、傷のつき方に違和感。
「……あなたが喋れないのは分かりましたけど。もしかして自傷の痕じゃないですか、これ。なんでこんなことしたんです?」
あからさまに胡散臭い。なんだこの男。フラウトに追いかけられて、だからと言ってそれでなんで首を掻っ切るのだ。
そもそもなんでこんなどぶ臭い所にいる。フラウトがゴロツキに目を付けられでもしたらどうするのか。
「ねーえ。私、あなたのことが全然信用できないんですが。ねえ、ほんとに、説明してくれません? 筆談でも構いませんから」
「…………」
「ソプラノ様!」
こちらの袖口を引っ張るフラウトを無視して続ける。だってそうだろう、だれがこんな怪しい奴を信じるものだろうか。
「私が代わりに説明しますから。だから、とりあえずその人の治療をしてください。お願いします」
「……ほんとに、気休め程度にしかなりませんよ? 私、その手の適性ないですし」
「お願いします」
お願いします、を何度も何度も繰り返すフラウトの潤む視線に再び負けて、仕方なしに、その男の首元に手を当てて治癒の術式を記憶の彼方から引っ張り出した。
勿論、その代わりに、今まで何があったかを話すようには指示したけれど。
◇ ◇ ◇
「――その人は、そうやって、教会から出た後に捕まってしまった私の事を」
「……あなたの事を?」
不自然に言葉を切ったフラウトはしかし、顔を横に向けたまま、唇を震わせはすれど、言葉を発しようとしない。
いくらかの逡巡、唾液を飲み込む様。
「助けてくれたんです」
「……?」
今の言葉を口に出すのに心の準備をする必要があるとは思えないが、しかしフラウトにはその儀式が必要だったのだろう。
少し不思議に思ったが、しかしフラウトがこの男を庇うというのであれば、まあ。
……脅されているような気配も感じないし。
「つまり、フラウトがろくでなしどもに捕まったのを、アナタがどうにか奪い返した後に、一緒にこの路地裏に逃げ込んだ、と」
「……」
俯いたまま、一切の反応を見せず、否定しない事で消極的に肯定を示す男。こいつはさっきから、ただの一度もこちらを見ようともしない。
正直ムカつく男だと、そう思っている。
いきなり蹴りかかるとか、無礼を働いたのはこっち? いいのだ私は。使徒だから。
こいつがただの市民であれば愛想の一つや二つ振りまいてもいいけれど、教団の下っ端であるなら、そんな気を遣ってやる必要なんかない。
それも優秀な後輩を誑かそうとしたのがこんな冴えない、しかも生活力どころか生存能力もなさそうな奴だなんて、正直、すごいムカつく。
フラウトの言葉を信じるにしても、そもそもコイツがいなければフラウトは教会から飛び出したりなんかしなかったわけで。
ひたすらにムカつく。元々こいつがすべての元凶じゃあないか。ロクな奴じゃない。
……しかしまあ、フラウトも無事だった訳だし、終わり良ければ総て良しってことで。
礼の一つくらいは言っておいてやりますか。ほんとなら別に必要ないけど、フラウトの手前ね。
吹き込んだ風でほんの少しだけ揺れた長い前髪、それに隠された顔がちょっとだけ見えた。三分の一程を覆う包帯が覗く。
その耳から顎まで至る輪郭を見て、一瞬、背筋が粟立った。
……こいつは、誰かに似てはいないか。
誰かに。
誰に?
……いいや。
こんな年頃の男に、知り合いはいない筈だ。少なくとも、こんな髪色の奴はいない。砂の様な、生気を感じない、薄い灰色。
軽く首を振って、嫌な気分を一緒に振り払う。
「……それで。なんでしたっけ、喉を切って声を捧げる事で? 周辺から音が聞こえないようにして、それで身を隠してやり過ごした……って、なーんですかその術は。聞いたことないです」
そう言って男を睨み付けても、そもそも視線を合わそうとしないソイツは、ピクリとも反応しない。
「そんなのまるで、むっかーしにド田舎で使われてたっていう原始魔術みたいじゃないですか」
「え……そ、そんなのがあるんですか。ほんとに」
「そこの出身に知り合いがいましてね。今はいなくなっちゃった先輩と、変わり者の偏屈爺様ですが」
……ニーニーナ先輩は、自らの出自に関する話はしたことがなかった。誰かから風の噂できいただけだから、もしかしたら本当の事じゃないかもしれない。
先輩が、イスタの出身だったっていうのは。
もう一人のイスタ出身の使徒の一人、チャイルドの爺様が、確かそこの縁者だと聞いている。こっちは本人から聞いた話。
あの人、魔術研究の第一人者だとかで、そういう古くてかび臭い田舎魔術に通じている彼の話に付き合った時、そんなのを聞いた気がする。
そう、イスタの魔術だ。その本質は『契約』である、とあの爺様は言っていた。
あの地では、契約は何より重要であり、等価交換を尊ぶ。それを破るモノには容赦はしない、と。
だからあそこでは、人柱や人身御供といった生贄じみた、蛮族そのものの文化が随分近代まで残っていたと……。
誰が容赦しないのか。
それを聞いたときに、あの爺様は答えてはくれなかった。老人の無駄話に付き合ってあげたのに煙に巻かれたとイラついたので覚えている。
使徒の中でも昼行燈で、いまいち他の方と違って尊敬できないのは……ニーニーナ先輩が、あの人の事を好いてはいなかったから、それに引っ張られたんだろうか。
……まあ、所詮は又聞きの話だ。仕事に絡んだ話でも無かったし、伝聞を鵜呑みにしてもしょうがない。
「指先とかを切って血を媒体にするのはありますけど、そもそも自傷行為を伴う魔術にロクなのはないんですよ。大体が思い込みで、効果が実証されたのなんかほとんど……」
――ねえ、踊りましょ? ダンスのお相手、お願いね? ソプラノ、ちゃあん――?
かつて、自らの耳に指を突っ込み抉って、己の術を解いた敵がいた。あいつはイスタ出身だったって聞いた。
脱皮をしたと嘯いて、自らの姿を変え、傷を癒した奴がいた。
魔族に阿り、そのうちの一人をこちらに嗾けて、殺そうとした。
先輩は言っていた。あれは蛇。イスタの伝説にある、人知を超えた因果の怪物だって。
魔族を恨んでしかるべきなのに、条理に反して人間に牙を剥いた、ファースト・ロストの忌み子が――
――ソプラノ・プラムは、唇を開いた。殺害魔術をそこから発するために。
殺そう、コイツがアイツであるなら。
殺す。コイツがアイツでなくても、思い出させたから。あの時の屈辱と恐怖を。
ごめんねフラウト、コイツは殺します。
この、隻腕の男……隻腕の。
……隻腕であるなら。
あの時自分を陥れた敵であるなら、既にそんな傷は治しているはずだ。そういう能力があった筈。
男の左腕を確認しようと掴みかかると、フラウトの驚く声が上がったが無視する。
他人より短い腕の端、そこには焼き潰された痕があった。その時に受けたであろう痛みを想像して、思わず眉根を寄せる。
少しだけ冷えた頭で、改めて顔を見てみる……前髪を、かきあげようとしても、男は抵抗しなかった。
人相……そもそも手だけではなく、片目もないようだった。喉の傷は、私が塞がなければ、未だに血を流していただろう。
髪の色が違う。あいつは真っ黒だった、こいつは鼠色。
そしてコイツからは、あの狂気が感じられない。
何より、あの音がしない。
人間が人間であるかぎり鳴らすはずのない、奇妙な、歯車の様な……いや、軋るような、悲鳴のようなあの音が。
死体の中身をまるまる何かと入れ替えて動かすような、そんな冒涜的な音が、目の前の男からはしない。
私は、アイツを初めて見た時、聞こえる音と眼前の光景の差異で気が狂いそうだった。おぞましさしかなかった。
あれは、まるで、人間とそれ以外の何かでできたパッチワークだ。
ばらばらなのをつなぎ合わせて、無理に動かしてるようで、そして、未だに恐ろしくてはっきり思い出せない、ぽっかりと顔面に穴が開いた様な笑顔。
最悪だった。
でも、さっきこいつの輪郭を見た時、私は確かに、アレに似ていると。
あの、かつて直視してしまった、死体の顔をした男の面影があると。朧になった記憶であっても、そう感じたのではなかったか。
……いいや、『何より』以上に何よりだ、あいつはそもそも死んだはず。
そうだ。『悪魔』は死んだ。人間を裏切り、魔族の手先となり、人間の世を血で塗り替えようと企んだアイツはもう死んだ。
死んだのだ。死んだ奴にいつまで怯えている、私は。
八つ当たりで人を殺すのか。この誇り高き使徒が。
「馬鹿らしい……」
「え? ソプラノ様、今何か?」
「いいえ。……彼……なんていいましたっけ。名前を教えてくれますか? フラウト」
「あ、えっと、クリスさんです」
「そう。ねえ、あなた」
「…………」
男に向かって話しかける。聞いたばかりの名も呼ばず、あなたと。
予想通り反応と言えるほどのものは返ってこないが、構わず続ける。
「フラウトの言うとおりであるなら、私からも礼を。それとできれば、先ほどの行いを許してもらえると有難いのですが」
礼と言うには、余りにも不愛想な言葉。
しかしどんな言い回しをしようが、この男が自分の態度を気にするとも思えず、故に今の言葉をもって筋は通したと考える。
己に向かって頭を垂れようとしない信徒であるなら、そもそも不敬。気を遣う必要なし。
懐の懐中時計に目をやれば、司教への歌の披露には間に合う時間であった。
「……近く、この娘はホープを離れますが、よろしければどうか、彼女の前途を祈ってやってください。あなたにそうされることを、この子は望むでしょうから」
「…………」
男は、はじめてそこで、僅かに頷くという意思表示を見せた。