Hopeless hope in Hope 14
◇ ◇ ◇
使徒が第八位、ソプラノ・プラムは、ホープの街中を走っていた。
――あの真面目な……いや、年相応の悪戯程度なら行う事もあるが、自分の盲目に対する後ろめたさゆえか、人に迷惑をかける事を嫌っているフラウトが、約束の時間まであと僅かだというのに姿を現していない。
それもただの約束ではない。今後の自らの人生の分水嶺とも言うべきもの、彼女が最も誇りを持っているだろうその歌声を司教に披露し、サリア教団の本拠地であるセネカの首都に引き上げられるに足るか否かの見極めを行うというものだ。それをすっぽかすというのは、彼女のこれまでの、この日への入れ込みようから考えても……。
(有り得る事じゃない。あの子、こんな大事な時に一体どこ行ったの……?)
詠隊の中でも首都で催される奉神礼にも参加できる立場と言うのは、望んだからと言って気安く得られるものではなく、チャンスがあるとしても一生に一度あるかないか。
いかな使徒たるこのソプラノが目をかけているからといって、その道理は変わらない。彼女はまだ、なんの実績もない、ただの一信徒でしかないのだから。
本来全員が自分達を出迎えてしかるべき教会の者たちの数も少なく、残っている者に事情を聞けば、案の定トラブルがあったようだった。
どうも最近、フラウトが執心していた男がおり、その素性を怪しいとみた司祭が、彼女に近づかぬよう警告したらしい。
その点については全く落ち度がないと思うが、どうもフラウト、それに納得しなかったようで、外にその男を探しに出て行ってしまったよう。
結局、この大事な日に、留守番を除いた教会の人間総出で探し回っているとのこと。何をやっているんだか。
しかし、まあ、大して大きくない街。
人間には、それぞれ固有の音がある。声は言うに及ばず、鼓動、血流、関節の軋み、足音……その個人を特定する材料は無数にある。
私には、それを聞き分ける弁別も、離れた距離にあっても聞き取る聴力もある。「音」というものに特化した己のギフトを使えば、本気で耳に力を練れば、この街のどこにいるかなんて把握できるはず……と高を括っていたのに、全然見つからない。フラウトの音が聞こえない。
……これが意味する可能性は、大まかに二つ。
一つは、この街に既にフラウトがいない、というもの。
もう一つは、最早フラウトが生きて音を出していない、というもの。
後者の可能性を掘り下げることは、理性と感情が協同して拒否した。
前者の可能性を、精査する。……地下にいる場合は、探しきれないかもしれない。だけど、私の耳が及ばない程に深くにいる? こんな田舎に、そんな施設があるとは思えない。却下。
……となれば。先日のフラウトの態度、先ほどの教会の人間の言から、……えええ、駆け落ち? まさか、まさかねえ、はは……。
私は必死に走っていた。
嫉妬ではない。これだけははっきりしている。いやほんとに。
そんな胡散臭い男と一緒に逃げるなんて、今までの私の恩義を裏切るにも程がありはしないか。
いや、いやせめてほら、私には一言言ってからにしてほしいよね、そういうの。
……無理に気楽な想像をして、自分の心配を打ち消す。
これが魔物の始末とかなら、全然落ち着いて取り組める。容易い話だ。けれど大事にしていた後輩が、無事でないかもしれないなんてそんなこと、正直考えたくもない。
こういう所が、使徒の先輩方からは、自分が未熟だと言われる所以なのかもしれない。
……使徒の先輩方は、皆、一見普通な人達だったりするのに、致命的なところで、私とは比べ物にならないレベルでタガが外れている。
使徒の中で最初に出会ったロットン先輩なんか、ピエロみたいなというか、そのものな格好してるから最初はサーカスの巡業に自分が紛れ込んだかと思った。
ムー君なんか、女の子と話すのが苦手なのか、照れちゃってほとんど目を合わせてなんかくれなかった。ちょっと可愛かった。
ココ先輩なんか、いい歳こいてムー君みたいな態度を取られたのがウザったくて蹴り入れちゃった。
……あの人たちに対して気安い気持ちで相対していられたのは、最初の頃だけだ。
あの人達と一緒に仕事をするたび、暫く私は、ご飯が食べられなくなった。
今でも仲良くさせていただいてはいるけど、先輩たちに向ける感情には、既に取り除けないほど根深い恐怖が、尊敬の念と同じほどに入り混じっている。
一番仲が良かったニーニーナ先輩だって、そうだ。
ニーニーナ先輩が、一番、あの水銀の魔女と近しいだなんて知らなかった。挙句の果てには、教団から脱走してしまったとも聞いている。
なのに、教団からは追討指令なんか出てやしない。無駄だから、とは誰の言葉だったか。
何が無駄になるんだろう。探すこと自体か。あるいは、それによって失われる人員が無駄なのだろうか。
あの、敵対者や裏切り者を絶対に許さない上層部が、関わってはいけないと念を押すような人が、あの人を差し置いてこの世にいるだろうか。
一番普通に見えて、一番異常な人だったのだと思う、今となっては。
本来なら、同じく姿を消したイヴ先輩に対してと同じように、発見次第殺害せよ、みたいな指令が降りてしかるべきなのに。
……イヴ先輩。イヴ・アートマン。使徒の元第十一位。人間離れした怜悧な美貌の……浮世離れも甚だしかった人。
なんか、髪の手入れしてあげた時に耳に櫛が触っただけで腰が抜けちゃった可愛いあの先輩は、今どこで何をしているんだろう。
直接戦闘は苦手だって言ってたから、教団はそんな指令を出したのだろうか。
彼女のギフトを知っていながら、そんな無理を言っているのだろうか。だとすれば、茶番だ。見つけられるわけがない。
ああ、ここしばらくで、どんどんと状況が変わっている。何も考えずに済んでいた、数年前が懐かしい。
魔王は死んだはずなのに、なんで世界は、全然平和にならないんだろう。
なんでこんな必死こいて、大切な後輩の命を案じなければいけないんだろう。
……気を抜くと、最悪な想像が、勝手に脳内を支配しようと攻めかかってくる。
だからこうして、身体はフラウトを探すに当たって設定した効率的な目標に向かって走り、頭には全然関係ない事を敢えて思考させる。
……他の人間にとっては知らないが、自分のギフトの前にあっては、フラウトの命を案じる段階ではない。
彼女がこの町を離れて、どこに行ったのか、それを追うための方法を考えるのが優先されるべき。
誘拐などではなく、もし自らの意思で街を出るなら立ち寄るに違いない、寄り合い馬車の受付まで向かう途中……ふと、目端に映った何かが気になった。
雑多な店の集まった通りの間、狭い路地の奥。日も落ちる時間、光が刺さないそこに、妙に勘が囁いた。
剣呑な空気の残滓とでもいうのか、とにかく、何か非日常的な、そんな気配を感じた。
思わず足を止め、そこに目を向けていると、じんわりと。
じんわりと、しかし確実に、その中から人の気配が漏れ出してきた。
「……なんです、これ?」
有り得ない。まずもって有り得ない。
つい先程まで、ここからは何の音も無かった。何の違和感もなかった、誰もいない筈だった。
魔術(法術というのが正しいのだろうが、田舎出身の自分にとってはどうもその気取った言い方はなじまない)を使うにしても、こんな完璧な隠蔽が出来る奴、市井にいるとも思えない。
なのに、そこには……人間が二人分、その気配が現れる。そしてそのうちの一つは、覚えがあった、いやそれどころか。
……なんだこれ。余りにご都合主義ではないか。
まるで図ったかのように、私が目を向けた瞬間に、世界が様変わりしたかのように。こんな誂えたように探し物が見つかるとか、そんなことってある?
例えばこれが敵の根城であれば、間違いなく罠ではあるけど。
路地裏に向けて、私は歩みを進めていった。
思ったより奥まで距離がなかったその場所。
入り口から十歩を数えた辺り。不意にこの小道を構成する建物の明かりがついた事で、その場にいた者も含めて、うっすらとではあるが照らし出された。
一人は、案の定、たった今まで必死に探していた後輩のフラウト。
もう一人……虚ろげな雰囲気の、髪が長いが男だろうか。
ソイツを見てまず目についたのは、俯き加減の頭から垂れる、薄灰色の髪。
ぼんやりと、蹲ったフラウトに視線を向けた様子の男。そして、その視線を受け、見えていないだろうにそれを察しているのか、震えているあの子の姿が目に映った。
私はまずその様子をもって、男の方に一足に近づき、蹴り倒した。
思いのほか軽い手応え……いや足応えで、男はそのまま吹き飛び、壁に肩をぶつけた。
「あなた、この子に何をしました!?」
ずるずると、壁にもたれながらくずおれていく男の胸ぐらを掴みあげるが、しかし男は顔も上げない。
こちらに対して、臆するでもなく、しかし従うでもなく。
……構わない、そんな態度をする相手を屠った経験だって少なくはない。
まずは痛みをもって言う事を聞かせてやろう。この子に対して一体何をしようとしたのか、あるいはしやがったのか。絶対に許しはしない。
魔術で強化した腕力で、ぎりぎりと首を絞めていく。
しかし男は、呻き声の一つも上げない。
耐えるというならいい度胸だ、どこまで耐えられるのか試してやろうじゃないか。
「さっさと言いなさい。正直にね。小娘だからって舐めるんじゃないですよ。片腕が不具だからって、手加減してあげると思わない事ですね……!」
「……」
苦し気に顔を歪める男はしかし、それでも何も言おうとはしない。
ふるふると、左腕をこちらに伸ばそうとして、けれど結局、だらんと垂らす。
(……なんなんですコイツ? 抵抗もしないなんて)
だが無抵抗だからといって、この男が無害な存在だとは思えない。
先程までの異常な現象をこの男が引き起こしたというのなら、フラウトをかどわかそうとしたというのなら。
……万が一にも詠唱ができないよう、先に喉を潰してやる、そのためにわざわざこの体勢を狙ったのだから。
「言う気がないなら、そんな悪い舌は」
抉り取ってしまいましょうか。
そんな脅しを口にする前に、横からの衝撃があった。
攻撃ではない。この男は、未だに身じろぎもしようとはしていない。
衝撃の正体。それはフラウトが、私の体に抱き着いてきたことによるものだった。