Hopeless hope in Hope 13
僕はまるで、力づくでむしり取った爪の寄せ集めだ。
臭うし、あらゆる要素が不揃いで、汚い。
◇ ◇ ◇
周囲は真っ赤っか。
黄色。
茶色。
黄土色。
緑がかってどす黒い、小さなの。
辺りに飛び散っているのは、各々汚い色の集合体だ。この中にはあの色が無い。
僕が生まれた時に、確かに見た、沢山の花弁が揃って笑んでいた光景の中の、世界が、この世界が美しいと底抜けに無邪気に示してくれたあの色が無い。
真っ白だったあの女の子の頬に差した、あの柔らかくて暖かい桜色。
僕が生まれた季節の色が、彼らの中にはどこにもない。
奴ら、やはり人間ではない。
汚い肉塊だ。汚い僕の餌には相応しい。しかしあの方の食事には相応しくない。
あの方は血の色が嫌いなのに。
臓物の匂いも言うに及ばず嫌いなのに。
ついやっちゃった。やってしまった。
もうちょっとあなた様と深くつながっていれば、こんな不躾な事はしなかったと思うのに。
余裕がなかったんです、汚くしてしまってごめんなさい。
――いいの、いいのよ。
――あなたがそうして、気まぐれに私を思い出してくれるだけで、私はもう、それだけで嬉しい。
――飛び散った汚穢であっても、舐めとって綺麗にしてあげましょう。だってそうしなければ。
――あなたの敵が、あなたを殺そうとするでしょうから。
……誰かがこの場に、ものすごい速さで近づいてきている。
足音すらもまだ聞こえない距離であっても、僕にはなぜかそれが分かった。
この、優しい声で語りかけてくれる尊い方は、その誰かさんを敵だと、そう僕に警告してくれている。
――奴が来る前に、結界を解除するわ。曲がりなりにも超越者であれば、この場所の異常に気づくでしょう。間違いなくこの場所に気付く。
――それだけなら構わないのですが、しかし今のままのあなたでは、その敵に気付かれる。気付かれてはいけない事が気付かれる。あなたが、あなただと気付かれてしまう。そうすれば……きっと良くない事になる。
――この状態では、私とあなたとの距離が近すぎるみたいですわね。あれは少し、耳が良すぎる。このまま私がここに留まれば、きっと音で気付いてしまう。
――あなたが人間以外の何かであると、そう認識してしまう。今あなたが助けた、そこな少女みたいにね。
そう言われて、僕は路地の隅に蹲っている、女の子の方に首を向けた。
だけど、目はまだ、彼女の事をまっすぐ見ることが出来ない。彼女の足元にややずれた視線を上げて、彼女を直視するのは怖かった。
……怖い、そんな感覚を覚えるのは、僕の中からあの方が段々と遠ざかっている証左だろうか。
あの方は、僕の中から弱さを全て取っ払ってしまうくらいあたたかかったから。
それに縋るのも、今の僕には少々怖い。あの方といると、怖さを忘れる。それが怖い。
トートロジーじみた事を言ってしまう、それほどに彼女は麻薬的だった。
――私はまた、しばらくあなたから遠ざかる。だから、あなたがこれから来る敵に相対するにあたっての、忠告だけを残します。
――よく聞きなさい。これは、あなたの…………いいえ、私の言葉です。よく聞きなさい。
いかなるお言葉でしょうか。きっと僕は、なんでも聞いてしまうでしょう。
そんな存在だった気がします、僕なんてのは。
――……一つ。決して喋ってはいけません。一音たりとも、口に出してはいけません。
はあ、声を。
……まあ、はい、分かりました。
――あと一つ。これから来る者の姿に覚えがあっても、動揺してはなりません。ただただ、知らぬ者として心得なさい。
はあ。となると、僕はその誰かさんに会ったことがあるということでしょうか。でしょうね。
ですがまあ了解しました。きっと、どうせ、あれでしょう。愚鈍な僕が怒らせてしまった相手なのでしょう。
しかし、そんな嫌われている相手なら、気付かれやしませんでしょうか。
……いやいや気付かれないのでしょう。あなた様がそう仰るなら。了解いたしました。
――最後に一つ。これは……必須ではありませんが。その子と仲直りなさい。私、あなたの先行きが心配になってきました。
ええ、ええ。
仰ること、全て分かりました。
全て、あなた様の御意思どおりに。
……そう伝えると、一拍置いた後に、彼女は掠れるような声で呟いた。
――あなたは少し、傷つきすぎています。出来ればその子とは、笑って別れなさい……。
心配げな雰囲気を醸し出した沈黙ののち、その声の気配は遠ざかっていった。
物理的な距離ではなく、もっと違う、きっと人間の世界には本来存在しないような距離の観念として、彼女は僕から離れていった。
気付けば周囲からは、汚物の匂いも、残渣も。あの汚い色の痕跡は、何も残ってはいなかった。
……姿も見せず、声だけを届ける存在。先日の頭目の屋敷でも話しかけてくれた、僕に力を貸してくれる不思議な存在。
そして気配が薄まるにつれ、僕は彼女の事を忘れてしまう。今のような状況でないと、彼女が存在している事すら忘れてしまう。間違いなく、尋常の生き物ではないのだろう。
こういうのは不敬極まりないのだろうが、胡散臭いにもほどがあるのだ、あの方は。実際のところ。
……それでも僕は、彼女の言いつけを出来る限り守ろうと思う。
そもそも、何の疑いもなく『不敬』なんて言葉を使ってしまうくらいに、僕なんかにも分かるくらい、彼女の高貴さは明々白々なものだ。そこに疑念の余地は発生しない。
だけどそれ以上に、あの方は、僕の事を、心から心配してくれているように思うから。それが、彼女を信じる理由。
いや、理由と言えば、もう一つある。
吹けば飛ぶよな存在の僕に向かって、あれだけ気を遣った物言いをして、あれだけ優しく振る舞っている彼女。
その裏の、勝手に僕が読み取ってしまった、あるいは妄想じみた確信。
彼女は、僕からの拒絶を恐れているように思う。
……きっと昔、僕は彼女を手酷く傷つけてしまったのだろう。
なぜ彼女が僕を気にしてくれているのか、それはいまいち分からない。思い出せない。
僕は、自分の不実さを、自分の妄想の中で再確認してしまう。
バッカスさんが知れば怒るかもしれないけれど、これはきっと、僕の根っこの、アイデンティティって言われる奴なんだ。
自分の落ち度に繋がるものを見つけてしまうと、もうそこに執着せずにはいられない。
だって、罪悪感って呼ばれるものが、きっと僕そのものなんだ。
――周囲の空気が変わる直前、蛇の男は、ゴロツキが落としたナイフで、躊躇なく喉を自ら裂いた。
彼女の声に従うために、彼女の要求を上回るために。
彼女が望んでもいない事を、薄々そうと気付きながら、それでもそんな事をする。
自分の中の罪悪感を切り刻むために、自慰に似た自傷行為を、かつてのように。
あの方の最後の指示を、守れなかったときの言い訳を探すように。
かつて悪魔を自称した男は、そうしてようやく、フラウトに目線を向けることが出来た。
自分が哀れである事を、殺人を犯す者ではなく、殺される側の人間である事をことさらに示すように。
案の定、フラウト・パーカスは怯えていた。
先程の行為のみならず、目の前で致命的に思える凶行を犯した男に、閉じた瞼の下の眼球が、拒絶の痙攣を呈している。彼女の内心をこの上なく示している。
狂人じみた振舞いをしなければ、盲人の小娘一人に目を向けることも出来ない。
それを皆が狂気と言い。
己だけが、弱さと知る。
男はへらりと笑った。
あの頃のように。




