Hopeless hope in Hope 12
「フラウトちゃんから、離れてください」
声の震えを隠すのに、必死だった。
振り向いた男たちの視線に、屈さないようにするので精いっぱいだった。
僕は臆病な人間だ。
だから、危険な所に望んで行く事なんかない。理由もなくそんなことが出来る蛮勇は持っていない。
そう思っている。
だけど、自分の中でどうしても譲れない事がある場合はその限りではない。
ただ、その『譲れない事』がどんなものかを把握しきれていないのが、僕の不徳のなすところではある。
精々、許せないと把握できているのが『英雄』と『子供の泣き声』、この二つだけ。
……悲鳴が聞こえた。だから、その場所に向かった。
その悲鳴が、子供の声だったから僕はそこに行ったんだ。多分、大人の男の声だったら行っていないかもしれない。だって怖いもの。
僕に出来るのはいつだって大したこっちゃない。
だのに、こうやって僕の目の前で起きるのは、いつだって僕の手に負えない事ばかりで。
ここにはバッカスさんもいないのに、僕と縁がある女の子が、こんな風に不遇なる目に遭っている。
僕には何もない。記憶もなければ、魔術だの法術だのも使えやしない。
目の前にいる、暴漢五人を相手取って、何かできるとも思えない。
それでも声を掛けたのは、襲われているのが子供だったから。
脚の震えが止まったのは、襲われているのがフラウトちゃんだったから。
自分の道をもう見つけていて、不実な僕が尊敬できる相手が、遭遇すべきでない不幸に見舞われてしまっているから、どうにかしないといけないと、そう判断したからだ。
僕には何もできないが、それでもこの場をどうにかしなければいけない。
ただ殴られるだけで済むのであればそうするが、性欲に満ちた野獣達がそれで満足するとは到底思えない。
僕には何もできないのに、どうしても何か、彼女を逃がすために何かをしなければいけない。選択肢は、いつだって数少ない。
配られた貧弱なカードを十全に活用するためには、しなければいけない『何か』を、まず考えなければならない。
「んだ、テメェ」
のっそりと、こちらに威迫を加えるためにフラウトちゃんから離れて起き上がって来た男に対して、僕はどうするべきだろう。
……物理的に一人がフラウトちゃんから離れました。これで解決、というわけにはいかない。
彼女がこれから五人の悪漢に襲われるというリスクを消すために、僕は何をするべきか、何を言うべきかを、その能力がないなりに考えなければいけない。
だって、僕は彼女に不幸が起きてはいけないと、それがちっぽけな僕の人生にとってのリスクだと、そう判断してしまったんだから。
最初に動かすのは口。
「初めまして、僕、クリスと申します」
「ああ!?」
丁寧な挨拶から、相手の好印象を求めるのは、絶対に無理。分かっちゃいるが、何も考えつかない以上はまず時間が欲しい。
「……っぜぇな。死にたくなきゃとっとと失せろ!」
失敗。
次。
「先ほど警邏の方がうろついていましたが……早くここから離れた方がよろしいのでは?」
「馬鹿かオメェ、身内だよ、この時間帯のは」
大失敗。
次……はもう無理か。今の僕の嘘で、目の前の彼らはもう、僕を痛めつける事しか考えていない。
「いい所で水差しやがって。もういい、お前殺すわ」
やるぞ、との号令で男達が一斉に取り出してきたのは、ナイフ。金属表面独特の、暗がりに残る僅かな光を受けた揺らめきが、人数分五つ。
彼らはその狂気と殺意をもって、僕をめった刺しにしようというのだろう。
……そんな光景は、フラウトちゃんには見せたくないな。見えないだろうけど。
刺されたら、死んじゃう。死んでもいいと思っていたけど、まだ死ぬなと、バッカスさんにも言われたばかり。
お馬鹿な僕の事……伊達や酔狂で自虐している訳ではない、この場を上手いことやりぬけるために考え付く手段はもうほぼない。
「有り金全部で、どうかお許し願えませんかね」
「……」
死体から剥ぐ、言うまでもないと。そんな調子で、そんな目付きで、フラウトちゃんに馬乗りになっていた一人が寄ってくる。
その歩みがひどくゆっくりに見えるのは、オツムの回転が早まっているからだろうか。
彼らに、この場からどうか穏便に去ってくれとの願いを込めた言葉は、すべて却下された。
だけど僕はそんな言葉を吐きながら、脚の震えが止まった瞬間から、全然別の事を頭の片隅で考え続けていた。
人間についてだ。
人間というものについて、考え続けていた。
『お前は、不幸な顔をしている……可哀想になァ……』
ウルスラにいた、物乞いの爺さんが、僕に向かってそういったことがある。
今冬、風邪で死んだ。二、三回しか話した事なんかなかった。
『だけど、そういうのを望んじまう人間でもあるんだろうよ……可哀想になァ』
そう言って、爺さんは寂しそうに笑った。
優しい目をしていた。
……僕は、本当に人間なんだろうか。
フラウトちゃんは、自分の夢を持っている素敵な娘だ。そしてその夢の内容さえも、人々に歌を届けて幸せにしたいと、そんな、奉仕的なものだった。
全く素晴らしい。『誰かの為の自分』……そんな存在になろうとしていた。だからこそ僕は、彼女に憧れ、劣等感を覚えて、妬む事さえした。
――昔の貴方は、何かを欲しがるふりをして。だけどそれを求めてはだめだと、笑っていました――
――ふりではなく、本当に欲しかった。だから暴力的な衝動を無理に引きずり出して、その思考から逃れようとする――
――それが貴方なりの、自慰だった――
――だって、本当に欲しいものが手に入らないときほど辛い事はないから――
――だけど、今は――
……シスターはこう言った。
人間は、皆が皆、例外なく僕より美しいと。
『君以外の人間は皆美しく、その中にあって君だけはひたすらに醜い。常にその劣等感を感じていられるなら……君はまだ、人間でいる事が許される』
……この言葉に、僕は一定の理解と納得を済ませている。
だって僕は人間でありたかったから。
人間未満の僕であるなら、せめて、最低の類であっても、人間になろうと。そう思った。
だって、まずは人間にならないとさ。なんもないなら、せめてその最低条件を満たさないとさ。
外道の最高よりかは、人間の最低になりたかった。そうしたらまだ、人間として……バッカスさんの言葉で言うなら、『うまれなおす』甲斐もあろうっていうもんだからさ。
僕は、ちゃんとした人間になりたい。
今の僕の最大の望みがそれで、そして、美しい人間であるフラウトちゃんが傷つくのは、どうにも許せそうにない。
フラウトちゃんに出会えて、彼女の美しさを見て、僕はそれにただ憧れた。美しいものを美しいと思えて、それが僕は……嬉しかったんだ。たとえ、その喜びと同じだけの痛みを受けたとしても。
僕がフラウトちゃんに貰った痛みは、僕自身をある程度確固たるものにしてくれた。
喜ばしい痛みだった。
…………。
……人間は、僕を傷つける為に存在している。シスターの言う事はやっぱり正しいのかもしれない。
でもさ。
――結局変われはしないのですね、だって、いつだって――
――貴方はどうしようもないほどに、救いようがないほどに優しいから――
――だから、こういうとき……大切な誰かが苦難の内にあるとき、貴方は――
……人間は、皆僕より美しい筈なんだから。
だから僕は、人間になりたいわけなんだからさ。
だったら……こんな、彼らのように醜い存在がさ。
僕が求める『人間』であるだなんて、そんなの、僕はやだな。
……人間は僕を傷つける、それはいい。僕が醜いから、彼らの美しさに焼かれて勝手に僕が傷つくのは、それはそれで別にいいのさ。
でもね、あなた方が人間未満だっていうなら、僕を傷つけられる筈がないじゃんか……。
……ほしかったもの。
こんな僕にだってある。
人間になりたかったんだ。
まっとうな、人間に。
にんげんに……。
人間。
これも……こいつらもそうだって言うの……?
本当に?
こんなのでも、僕よりもきれいな生き物だって言うの?
……そう言ったね。シスターは。
――あまりに気安く、人間である事を放棄する――
だったら中身もそうなのか。
そうだって言うなら見せてみろ。
◇ ◇ ◇
彼の声を耳にしたとき、私は夢でも見ているんじゃないかって思った。
求めたのは、助け。
無責任な、自分勝手な、信仰から離れた神への祈りではなく、人の中で生きる私がすべき、助けを求める声……私はそれをあげた。
それを受け取ってくれたのは、私の歌を綺麗だと言ってくれた、あのクリスさんだった。
始めに胸に去来したのは、喜び。
まるで物語に出てくる、お姫様を救いに現れる英雄のようなタイミングで現れてくれた事に、どうしようもなく胸が高鳴った。
次に訪れた感情は、恐怖。
もし彼が私の為に傷ついてしまったらどうしよう、いいえそうなる、だとしたら……。
逃げてほしかった。私の事など放っておいて、一目散に逃げてしまってほしかった。
……そんな私の偽善的な考えを塗りつぶすほどに、喜びと、どうか見捨てないでと言う縋る気持ちは大きい。
それでも私は、やっぱり、彼に逃げてもらいたい。無事でいてもらいたい。
……ここにいるのは五人。それも、凶器を持っている様子の彼らを、隻腕のあの人がどうにかできるなんて、そんな筈もないのに。
だから私がすべきことはたった一つ。逃げてと、そう叫ぶこと。だけど、それすらも塞がれた口では出来ない。
私の目の前で、あの優しくて、どこか悲しい響きの声を持つあの人が殺される。
そんなのは耐えられない。
せめて、私は平気だから、だからどうか逃げてと、その意思を伝えたくて唸り声をあげようとしたその時。
……今までの声とは違う、妙に低い淡々とした声があの人から発せられた。
「最後に一つだけ。あなた方は、人間ですか?」
「テメェもコイツと同じかよ。見りゃ分かんだろ、人間だよ」
暴漢の一人……私の服を剥いだ男は、音から推測する限りはその右手に持ったナイフを振りかぶった様子で。
喉を傷める事なんか考えもせずに、最悪の事態を想定して、思いっきり唸り声を上げた。
だけど、刃が肉を貫く音は聞こえなかった。
「僕は嘘付きは嫌いなんです。貴方は違う。人間じゃない」
「ん、ア゛?」
最初に聞こえたのは、硬い棒切れのようなものから、柔らかいものを食いちぎる音。
そして、形容しがたい……僅かに困惑が読み取れる、人間の声帯から漏れたと分かる音。
「だとすれば、ちゃんとした人間になりたいかい……なりたいよね? 実は僕もそうなんですよ」
「あ、あああ、なん、なんだお前それ……」
クリスさんの声がいまいち聞き取り辛いのは、まるで話している合間に、何かを咀嚼しているかのよう。
もう一人の声が聞き取り辛いのは、まるであってはならない絶望的な事を目の当たりにしているかのよう。
「だったら誰よりも不幸にならないとだめだよ。君らみたいなのは、まだ人間じゃないんだから」
「あ゛あ゛あ゛……やめろォおおお゛ーッ!」
野菜をすりおろしたかのような音。硬い何かを無理やりねじる音。
最早言葉では言い表せない、男の濁り切った悲鳴。
「だってそうじゃないと、本当に辛い人の気持ちなんかわからないじゃないか」
粘度の高い液体がまき散らされる音。
雄叫びを上げて、私を跨いでクリスさんに殺到する男たちの足音。
「だから誰よりも辛い思いをしなきゃだめだよ」
肉を握るような音、すかさず皮を引っぺがすような音。
ビラビラした何かから、歯のような硬い何かでこびりついたものをこそげ落とす音。
舐めしゃぶる音。
「この世の誰一人だって、人間だって言うなら、僕より不幸でいちゃいけないんだ」
穴に何かが突き刺さる音。痛そうな音。
先ほどの男とは別の誰かの、くぐもった悲鳴。怯えを含む声。
「僕より不幸な奴なんか一人残らず消してやる。僕より汚い奴なんか、一人だって残すもんか」
肉を柔らかくするために、ハンマーのようなもので叩く音。
甲高く跳ね上がった悲鳴は、常人の可聴域を超えた。
「そうしたら、そうしたらね」
硬い小さいものが引き抜かれる音。窪みから棒状のものが外れる音。
ぜえ、ひゅう、と、粘性の液体がまとわりついた笛のように零れる息の様な音。
「この世の……人間。僕よりきれいな、人間」
魚を三枚におろすような音。
痛い痛い痛いと、それしか言えないかのように、苦痛から逃れるための呪文のように、繰り返される声。
「にんげん」
曲げちゃいけないものを限界を超えて曲げる音。
「みんな綺麗。きれいだから、僕が救ってあげられるの。僕がその下に滑り込めるの」
すり合わされる音。はがされる音。
誰か一人、この場にいる者の鼓動の音が止まった。
「助けてあげたいの」
温かな何かに……気づきたくない……何かに何かが突きこまれて、何かを開いたり閉じたりする音。
「みんな幸せにしてあげるの」
……太ももの肉が潰れる音。
膝関節が軋む音。これは誰かが逃げようとして、誰かに踏みつぶされた音。
あの人が、人間の脚を靴裏で踏みにじる音。
「僕は踏み台になれるの。やっと。きれいなみんなのために」
しゃぶる音……やめて、そんな事、貴方がする訳ない……。
……捻る音。折れる音。そんな音を出さないで。
「そうすれば、みんなが、お互いを思いやれる素敵な世界が待っている」
「 様が夢見た世界が待っている」
「だからさ」
左手の指の関節を一つずつ引っこ抜いて外す音。
はめ直す音。
……手慰みに遊んでいる音。
「もっとみんな、君らのようなのは不幸になあれ」
「誰かを傷つけるしか能の無い奴は、どうしようもなく不幸になあれ」
毛のようなものが引き抜かれる音。絞る音。
「汚い君たちからはじめるんだ」
「ここからすべてを」
潰れる音。
噛み砕かれる音。
飲み込まれる音。
「ここからすべてを」
硬口蓋で丸い何かを転がす音。
「人間なんだろう?」
「元々は僕よりきれいな、人間だったんだろうがよ。なのに堕落しやがって」
頭皮をめくる音。……千切れるまでやってみようと、引きはがす試みを続ける音。
「……汚いのは。僕にすら汚いとみられるような奴、そんな奴は人間様じゃないよ」
「そんなのいらない」
「……君たちみたいなのは、いらない」
「綺麗な人を汚すようなのは、もう人間じゃあないんだよ」
べりべりべり、と引きちぎられた何かが、地面に投げ捨てられて張り付いた音。
――私には、その場で起きた全ての音が聞こえていた。
あんまりにもおぞましくて、恐怖でぼんやりと麻痺した脳が、私の意思とは離れて周辺の様子を把握していた。
そこから得た情報の中で、一つだけ不思議だったのは、音の反響が全くなかったこと。
きっと、すぐそばに明るい大通りがあって、だけど私の助けを呼ぶ声が届かなかったように……いいや、それとは違う、私にはきっと理解できないルールがここにはあって、だから彼らの悲鳴は誰にも届かなかったんだ。
私以外に、彼らの末期の声を聞き遂げる者はいない。
すすり泣く声があった。
怒声が、恐怖を孕んだものに変容した。
許しを請う声がした。
その中で今、私達を繋いだ絆であるあの聖歌を唱えているのは、彼。
合いの手のように、返して……と囁く声。
返さない、と優しく囁く声。
ごめんなさい、と謝る声。
いいんだよ、と、優しく呟く声。
なんでここまでするんだ、と縋る声。
まだ足りない、と物足りなさげな声。
『化け物』と、立ち込める失禁の臭いと共に零れ落ちた声。
その声に、あの人は敏感に反応した。まるで心外だ、とでも言わんかのように。
「いいやそれは、それは違う」
「僕はただの人間なんだよ。醜い、真っ直ぐな道から外れた……弱い弱い、人間の最下層だぁね」
「だからさ」
「……足りないものは、補う必要があるのさ」
そして聞こえる、「いただきます」と「御馳走様」。
ぎちぎちと、硬い何かを噛み潰す咀嚼音。
人の中身が、別の人に取り込まれて、ギィギィと軋るような音を立てる。
まるでこれは……そう、歯車のよう。
ああ。
これは。
断じて人間が出して良い音じゃない。
……私は目が見えない。
だから聴覚が私の目の代わりだった。これを失うだなんて、考えられない。
だけど、今日たった今、生まれてはじめて私は自分の耳を塞いだ。
聞くに堪えない音がある。
見るに堪えない人が、目明きの世界には存在している。
私は多分、幸福だったんだ。
私の目が見えないように産んでくれて、ありがとう、お母さん。
……だって。
今、すぐそこにある光景を実際に目にしたら。
私はきっと、気が狂って死んでしまうだろうから。