頭目
昨日の醜態がいつまでも脳裏にちらつき、バッカスは片目を歪めた。
……楽しかったものだからなお悪い。自分という人間、まったく大人げないことこの上ない。
あの若白髪には悪いことをした。頭を下げるまではする気もないが、そうさな、飯でも奢ってやるか……。
「しかしなぁ……」
やはりもったいない。あれだけの地力があるなら、何かできる仕事もあるだろう。
悪縁も縁の一つだ、こっちでの始末がついたら、どこかに口利きしてやってもいいかもしれない。
バッカスという男としては殊勝にも、そのような事を考えていた。
……このように、襲撃を控えている身の思考としては散漫であったが、伊達に使徒を名乗っている訳ではない。
現在は散策がてら、明後日に迫っている己の仕事を確実にするために、諜報員に調べさせた逃走ルートを確認しているところだ。
無論、己が暴れた後に脱出するための道順の確認ではない。
逃れた撃ち漏らしが使用するであろう道に、確実に先回りするための確認である。
諜報員を、可能な限り効率的に、また民衆に被害が出ないように配置するためではあるが、それも所詮万が一、億が一のことだろう。
……己は使徒だ。只人が抗える存在ではない。たとえ人外であろうが魔族であろうが、己のもたらす死から逃れることなど許しはしない。
奴らを逃がすなどと……言ってしまえば笑い話だ。全員、現場において己の手で潰すことを大前提とした上での保険でしかない。
気負うでもなく、ただ当然の事実として、バッカスはそのように考えていた。
……一通り街をまわって、さて本当に後はやることがあるでもなくなった。
また酒でも飲むか、とこの中年は自堕落なことを考えた。
昨夜は多少騒ぎすぎたが問題を起こしたでもなし、別にターゲットに知られるようなことはないであろうが、なんとなく今度は別の店にしてみようかと考えたところで。
後頭部に、恨みがましい視線が突き刺さるのを感じた。
振り向いてみれば、今にも死にそうな顔であの若白髪がこっちを見ている。
「なんだ、辛気臭い顔しやがって」
……バッカスの口をついて出たのは悪態だが、これは理由があっての事だ。
昨日の様子では、この物乞いはどうもえらく酒に弱いらしい。まったく許せないことである。酒こそが人生であるといっても過言ではない。成人を過ぎて飲めもしないのであれば、それはヒヨコとかわりはしない。
このように、やはりバッカスは馬鹿であった。
が、老獪でもあった。
昨日自分が行った無体……眼前の男がギャンブルで勝ち得た儲けを綺麗さっぱり使い果たしたことを覚えているか否か。
そこがまず重要であった。ので、まずはすっとぼけてみた。
「頭が、ズキズキ痛むんですよう……なんでしょうかねえ、これ……」
「……昨日、俺が酒場に連れてってやったことは覚えてるか?」
「ぜんっぜん覚えてないです……目が覚めたら、そこの旦那さんに叩き出されましたけど」
バッカスは内心でガッツポーズをした。
「ただ、なんとなくなんですけど……」
「あん?」
「なんか、貴方を見てるとこう、釈然としないというか」
「そんなのは気のせいだろ。良くあることだ、気にすんな」
「そうでしょうか。そうなのかなぁ……?」
一瞬冷や汗を流しながら、バッカスは慌てて話題を変える。
「しかしお前、覚えてねえってんなら言っとくがな。酒癖が悪ぃぞ。飲むなとは口が裂けても言わん、少しは慣れとけよ」
「お酒なんて嗜好品じゃないですか。僕、そんなの買う余裕ないですよ。一文無しですし……あれ、おかしいな。昨日はそんなことなかったような……というか、ちょっと小金持ちになれたような……夢だったのかな」
話題の選択に失敗したことを悟ったバッカスは、瞼を痙攣させつつ、このような言葉を投げた。
「……ま、まあ、風邪ひかねえようにな」
そしてそのまま踵を返し、撤退を選択した。
……本当に、仕事探しは真面目に手伝ってやろう。そんなことを思いながら。
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傍目には、なんという事もない……というには少々大きすぎるが、普通の屋敷。
しかしその周辺には、剣呑な目つきをしたものがつかず離れずうろついている。
フォルクス国ウルスラの十一番街地区においては、そこで、この規模の町としては不釣り合いなほどの金銭のやり取りが――当然非合法かつ内密裡にであるが――行われている。
「……『頭目』」
「なんだ」
「お客人です。……ヒミズ様がいらっしゃいました」
「通せ」
椅子に座ったまま、横目で窓のブラインドから外を見ていた『頭目』と呼ばれた男は、抑揚のない声で部下に返事をした。
この男、本名をバラージ・ジェイコブスという。
他の無法者の例に漏れず、スリなどの仕事から裏社会に入り、そこで経済的な嗅覚を見込まれて出世の機会を得、そして今はこの地区での顔と呼ばれるまでの地位を得た。
特にこの男が優秀であった点は、表での合法的な仕事をこなしつつ、またサリア教団の後ろ盾という強みを得たことにより、他の人間からの敵対を許さなかったことである。
前者により、街への税収を潤すことで公的機関からの攻撃を避けた。
後者により、裏社会からの暴力を、それ以上の権威をもって防止した。
間違いなく優秀であったものの、この手の人種の例に漏れず、他者の不幸を糧として生きることに疑問を持つことがなく、そして今、教団側の手落ちにより、不都合な結果を招こうとしていた。
……タイミングが悪かったのだ。
後ろ盾であった者を、より高次の者に。
事業を拡大していく上でそれこそが必要な措置だと考えた男は、これまで懇意にしていた教団の幹部から、更に別の者に渡りをつけようとした際に事件が発生した。
使徒『ローグ・アグニス』の暴走だ。
「『白炎』……あいつさえいなければ……!」
思わず歯噛みする。
違法薬物の原料を栽培している土地が、最近耳に入る『奴』の暴虐に運悪く巻き込まれ、一時的な品不足と価格の高騰が発生した。
その後始末、また渡りをつけようとした際の情報屋の不始末。経済面のダメージだけでは済まなかった。
諸々が重なり合い、とどのつまり、自分は本来守ってもらえるはずの者から狙われることと相成ったわけだ。
……唯一これらの騒動の中で得た収穫は、優秀なアサシンが一人。
後ろ盾の政敵に情報を漏らすこととなった馬鹿野郎の暗殺を頼んだところ、次の日には首を持ってくるという勤勉さ。
何より驚いたのは……何故このような場末でくすぶっていたのかは知らないが、ヒミズと名乗ったその男は『ギフト』持ちであるという。
使徒のような人外は皆手に入れているというその異能は、喉から手が出るほど魅力的であった。
……法術、いや教団の欺瞞に付き合う必要などない、呼び方が変わろうが同じものでしかないのだ。魔術でいい。魔術という便利な力があってなお、魔術師が戦場での花形となりえないその理由。
それが、魔力と詠唱という存在だ。
現界する魔術の規模に比例して消費される魔力というエネルギーは、一人の人間の内には、大した量が存在しない。無論例外もあるだろうが。
詠唱についても、当然同じように規模と比例した長さのものが必要だ。それも、一息で行う必要もある。
遠くの敵に僅かなダメージを与えるだけでも疲労困憊、息切れをしてしまうような者がほとんどであるなら、それは安定した戦力とは呼べないだろう。だからこそ、才能のある人間は国が必死で囲う訳だが……所詮個人は、軍勢を剋し得ない。
そもそも、僅かな火を灯す程度の魔術ですら使えない者も少なくない。魔術というのは、一定程度の知識を要するものだからだ。そして理外の力によってそれ以上の結果を求めるのであれば、当然才能というものがいる。
一般に、戦闘に出せる魔術師というのは、魔力を扱う才能がある者のうちでも百人に一人程度しかいない。
そして当然、それに見合った気質というものも必要だ。臆病な天才が、名を上げぬまま孤独に研究を続け、それを疎んだ政府に殺害されたという例も聞く。
……上記のような魔術の例外として、『ギフト』と呼ばれるものがある。
魔力を使用するのは魔術とかわりはしないが、その使用効率も、発生する効果も段違いだ。まさに個人において一軍に匹敵し得る、そのような存在であり、そしてそれらを持つ異能者を囲うことで権能を維持し続けているのがサリア教団である。
……勇者にかこつけて使徒などと言っても、はるか以前から教団に敵対するものを闇に葬ってきた集団だ。昔からそのような力を持つ者を探し、そして教団内に引き入れてきたのは間違いないだろう。
そのような力を持つ者が、今自分の手元にいる。これは、天啓であるようにも感じた。
何せ今まで教団に流し続けてきた金も、決して安くはない。己でこの身と組織を守ることもできるというなら、教団の本拠であるセネカならともかく、さらなる事業の拡大もここフォルクスにおいては可能であろう。『ギフト』持ちがいるとなれば、こちらから手を出さぬ限り教団も迂闊なことはするまい。『彼』自身教団を嫌っている様子であるなら、引き抜きを受ける心配もないというものだ。
……教団内の身を崩しかけている間抜けは暗殺者を雇ったというが。なに、こちらはただ、『彼』にもうひと働きしてもらえば良い。
あの技能は、教団の奴らに言わせるならばまさしく神業だ。誰であっても敵うまい。
我が身の安全が、使徒と同格の者によって保障されるのであれば。
薬物だけではない。これからは、目のつけられやすい人身売買にも手を出すことが出来る……。
……ノックの音が四回響いた。
礼儀正しい所も、自分が彼を気に入った点の一つでもある。
「入ってくれ」
そして、己の今後の栄光を支える客人が扉を開いて現れた。