Hopeless hope in Hope 8
……使徒とは、人々に広く信じられているサリア教が所有する、神の御心をこの世にあらわす十二振りの剣であり、また盾でもある。
使徒十二名が揃えば、それだけでフォルクスの全軍に伍するとまで言われる、宗教国家セネカが擁する最強の暴力装置。
神意を世に知らしめるために、神から与えられた『ギフト』という能力を行使して、その敵対者を駆逐する修羅でもあり。
魔王を奉じる魔族らや、精霊を神より上に置くような歪んだ教義を持つ邪教徒らから守るための菩薩でもあり。
神がこの世におられる事をその優れた力によって体現し、子羊達を現世において迷わず導くための御旗でもある。
そんな雲上人の一人である彼女……ソプラノ・プラムが、こんな小さな街に、それも戦闘がある訳でも無しにいらっしゃるというのは、常識的に考えて本来なら有り得ない。
その常識を歪めたのは……誤解を恐れずに言うのなら、私という存在が理由であるのだろう。
「明日の件で緊張しているのは分かりますが、根を詰めすぎるのも良くありませんよ」
「はい、もったいないお言葉です」
「……貴女は、私の後継者になり得る素質があるんですから。ちょっと偉くなりすぎちゃいましたからね、私。本来の聖歌隊としての役割だけを務める訳にもいかない……歌でもって、衆民を導くという大事を行っていくのは、貴女達のように恵まれた才能を持つ者の役目になるんです」
義務でもある、と彼女は続ける。
そう、本当にありがたい事に、私は偶々慰問で街に寄った彼女に、この声を評価していただけた。
自らが非常に優れた耳を持つソプラノ様は、私が歌った僅かなフレーズを耳にしただけで、その素質を見抜かれた。
『そういった声が出るなら、そういった音の捉え方が出来るなら……それは、私のいる所まで来られる可能性があるという事です』
……そして、私は、彼女から幾度か指導を賜る機会を頂戴した。
声の出し方から複雑な応用技法……そういったもののみならず、魔力を用いた音の増幅や聴力の拡張、周囲の音によって視力を補う方法まで。
全て、彼女から教わった事だった。
……同じ隊の子たちが、この力を恐れるのは不敬な事ではあると思った。けれど、自分に理解できないものを恐れるのは仕方ない事だと諦めていた。
だけど、あのお兄さんは、そんなものは、ただ素晴らしいだけだと、羨ましいなと、そう言ってくれたから。
そう思ってくれたから、それが私は、嬉しかったんだ。
「……フラウト、聞いていますか?」
「え、あ、すみません! な、なにか仰いましたか!?」
また思考が逸れてしまっていた。歌っていた時もこんな事を考えちゃっていたけれど、聖歌とは、神をたたえる歌だ。
雑念をまじえるべきではないし、そして今はソプラノ様が話しかけてくださっているのだ。
集中してお話を聞かないと。
「……仕方ない子ですね」
ソプラノ様は、ため息を一つ。片方の手を腰に添え、そして私を驚かせないようにだろう、そっともう片方の掌をこちらの顔の前に寄せてきて、そして人差し指をぴんと立てた。
「明日ここに来る司教は、耳が肥えてはいますが、所詮は『ある程度』の話でしかありません。先ほどの技量を見せつけてやれば、貴女がシュリに招聘されるのは自明の理。今回はそれで十分ではあるのでしょうが……」
「……? はあ、ありがとう、ございます……?」
ソプラノ様のお話の意図が読めない。
私はまだまだ彼女に比べれば未熟だけれど、であるならば、何を仰ろうというのだろう……?
「私としては、あの仕上がり具合に納得がいきませんね。フラウトあなた、まさか男でもできましたか?」
「へぁっ!?」
とんでもない事を。
全く想像外のセリフを、彼女は私に向かって放ってきた。
しかし彼女自身、私の反応に驚いた様子で。
「え、え、何その反応。嘘でしょ……こほん。先ほどのを聞かせてもらいましたが、声に変な熱が籠っていましたよ。これまでにはなかった事です」
「そ……そんな事、ないのではないかなあ……と……」
「私の耳は誤魔化せませんからね。そういうのはまだ貴女には早いですし、我々の立場としては好まれません……いや、別に嫉妬とか、そういうのではなくって」
ソプラノ様は、もう一度、こほんと空咳をして。
ふにゅ、と自分のほっぺたに両手を添えて真面目な表情を形作ったらしい彼女は、真剣味を込めて、やや咎めるような声色で。
「我々の歌は、聴衆を導き、そして神に捧げるべきもの。市井の娯楽とは違います……明日もその調子なら、司教が認めようが私は認めません。今回の話は見送りとします」
「……はい」
……色恋とか。
私の心にあったのはそんなものではないとは思うけれど、彼女がそう言うのであれば、今の私の声は、彼女が求める基準に達していないという事なのだろう。
彼女を失望させてしまった事が恐ろしくて、申し訳なくって……私は彼女の言葉に、ただ、是を返す。
「と、ところで、これはあくまで興味本位ではなく、貴女の師として必要があるから聞くのですが」
「はい、なんでしょうか」
先程までの空気から一転、どこかそわそわしつつソプラノ様は、法衣の裾を握ったりはなしたり、私と同じくらいの身長でありながら何故か俯き加減の上目遣いのご様子で。
「ど、どんな男と会っているんですか。ほら、貴女教会に住み込みですし、出会う機会とかあんまりないんじゃないかなって思いましてね。いえあの、悪い男に騙されてたりしたら心配ですし、ええとあのあの、自分の時の参考にしたりとか、そんなこと考えてる訳でもなくてですね」
「……あの人とは、そう言う関係じゃ」
「あの人ォー!? あの人って事はやっぱりあなた心当たりがあるんじゃないですか! いけませんよ不純ですよ! 私だって先輩だって男なんか作れなかったってのに!」
「いえ、あの、ほんとにそういうのじゃ」
「そういうのォー!? なんですかなんですか、甘酸っぱい何かがあるんですか! ズルいズルい! 私だってそういうの経験してみたかったのに!」
「あの、ソプラノ様、ちょっと落ち着いて」
「落ち着いてェー!? これが落ち着いていられますか! 変に立場が出来ちゃったもんだから、寄ってくる男ったらこっちの地位に目が眩んだ奴ばっかだってのに、そんな余裕ぶった事言ってられますか! 先輩みたいに私は行き遅れたくはないんです! 言いなさいフラウト、私に教えなさい! どんな男なんですか、どうやって捕まえたってんですか!」
「ソプラノ様、その、そんなに叫ばれては喉が傷みます」
「喉と男とどっちが大事ですか! そりゃ喉ですよ! でも男だって大事なんですよ! そろそろ真面目に相手見繕っとかないと絶対寂しい将来が待ってるんですよ!」
がっくんがっくんとこちらの肩を両手で揺さぶる彼女は、切実な声で教えてよぉー、と縋ってくる。
……いつも超然としていた、雲の上の方だと思っていたソプラノ様の、そんなご様子は初めてで。
そんな様子は、年相応の女の子らしくって、可愛らしくて、私はついつい。
「……内緒です。でも、一つだけ。彼……とっても優しい人なんです」
悪戯交じりの心持ちで、それだけこっそり教えてあげた。
……自分が思わず笑みを浮かべている事に気付いて、ああ、あの人の事を誰かに話せるのは嬉しい事なんだなと。
そう思えて、それもまた嬉しかった。
そんな私の様子を見たソプラノ様はンひぃ、と愉快な声を一つ上げて。
「お、おのれ、なんと眩しい……覚えていなさいフラウト! これで勝ったとは思わない事ですよ! ……あと、明日は頑張りなさい」
すたこらさっさと、礼拝堂から去っていく彼女に向けて、私は黙って頭を下げた。
……色んな人に私は支えられて生きている。
その中には、ソプラノ様も……あの人も。私は、色々な人と関わりながら、成長しながら、これからも生きていく。
……あの人にも、感謝の気持ちを伝えたい。
会えるのは、もう明日が最後になってしまうかもしれないけれど。
私は、あの人を傷つけてしまったけれど。
……それでも私は、あの人に、ありがとうって伝えたいな。
私の歌を聞いてくれて、私のお話を聞いてくれて、私の事を褒めてくれたあの人に。
私が、私の汚さを理解する機会をくれた……私が成長する機会をくれたあの人に、あなたに出会えて良かったって伝えたい。
……人が持っている当たり前の汚さを自分が持っていることに傷ついてしまった、優しすぎる彼。
私は、あの人が、自分の事を許してあげられるように祈ってあげたい。
……そして、もし一緒に、彼とあの歌をもう一度歌う事が出来たならば。
そうすれば、それはきっと、私にとっても忘れられない……一生の思い出になるだろう。