Hopeless hope in Hope 7
「ただいま戻りましたぁ……」
しょんぼり気分が抜けないままに、宿にのっそり帰って来た僕。
宿屋の旦那さんに声を掛ければ、こちらに視線もむけずに、ん、と不愛想な呟きだか唸り声だかが返ってきた。
大体この時間にいつもシスターも戻ってくるのだが、普段は僕の方が早く帰っていたのでどちらが先かは分かったものじゃない。
どのみち、お互い荷物となるような貴重品など持っていない事は確認済みであって、部屋に置いてあるものと言えば精々がシスターの着替え程度である。
シスターはその辺あんまり頓着しない性格であるらしく、お金だけは彼女が厳密なる管理をしているため(その所為で僕はひもじい思いをしている)、お互いの横着さもあって鍵なんていう洒落たもんはかけていない。
修道服だぞ。ちょっと色っぽいのだぞ。盗まれて変な事に使われる、とか、そういう事は考えやしないんだろうか。
……いずれにせよ、僕らのそこらへんの感覚は宿屋の旦那さんもそこら辺は承知しているため、階段を上がっていく僕の背中に向かって「夕飯が出来たら声を掛けるよ」とぼそり。
それだけ。
――先に言っておこう。
普通、同室の人が先に帰ってきていれば、教えてくれてもいいもんじゃないかね。
ねえ、旦那さんや。業務怠慢じゃないですか?
貴方がそういう仕事を怠ってくれたお蔭でさ。
僕は今、土下座させられているんだよ。
◇ ◇ ◇
――ついさっきの話だよ。
ほんとに、五分かそこら前の話。
……自分達に割り当てられた部屋のドアを開けたところ、照明がついているのは差し込んできた光から分かったけれど。
精々がね、ああなんだ、僕の方が珍しくも遅かったわけか、と。そのくらいの事しか考えなかったわけさ。
誓ってだよ、神様やらとは、さっきお歌のお蔭で仲良くなれたに違いないんだ。僕の言葉も信じてくれようさ。
誓って言うよ。やましい気持ちとか、そんなのは欠片もなかったんだ。
何せそれどころじゃない程度には落ち込んでいたんだから。
最初にそれが目に入ってきて思ったのは、あれ、なんかやわらかそうなもんがあるな、と。そんくらいのもんだったんだ。
よりにもよってだ。
よりにもよってだよ。
彼女、こちらに背を向けて四つん這いでさ、屈み込んでいたわけでさ。
ここが尚更意味が分からない点なんだけれど、素っ裸で。
信じられないと言われようが、言葉どおりさ。僕だって意味が分からなかったんだよ、最初は。
自分の目に映っているものがなんなのか、全く理解の範疇外だったさ。
だけどね、白くて丸くて柔らかそうなのがね、こっち向いてるの。思わず御挨拶しそうだったね。
やあ見ない顔だ、初めまして、僕クリス、ってな感じにね?
そりゃ初めましてだよ。見たことなかったよ、シスターのお尻なんて。
見たいと思った事は、そりゃこの僅かな道中でもあったさ何度も。
僕の先を行く彼女のお尻がふるふる震えているんだから、そりゃむしゃぶりつきたくなったことの一度や二度や三度はあるよ。
だけどしなかったね。僕はしなかった。
なんでって、そりゃ、ただでさえ低い立場の僕がさ、理由は不明ながらも彼女に大層嫌われているだろう僕がさ。
そんな事したらどうなっちゃうかなんて、馬鹿な僕にも分かっていたからね。
自分を知れとなんざ言われるまでもなく、そんなこたぁ分かってたんだよ。
だのに、これさ。
彼女、最初、ポカンとしてたね。
僕からは、はじめはお尻しか見えなかったからね。
逆に言えば、お尻はまったく全てが見えていたからね。
ああ、今度も誓って言うよ。彼女のお尻で僕の目が捉えなかった部分は一つもないね。
上から下まで、秘すべき部分も何もかも、一切合切が白日の下に晒されていたね。皺の数まで覚えてるさ。
……僕は嘘は嫌いだからね。正直に言ったぜ。
お風呂上がりだったらしくてさ。ポタポタと滴がね、髪からも垂れていたんだわさ。それがね、背骨の辺りを辿ってお尻の末端にまで到達してね、床にポタリとね。
いや、風情のある事だったなあ。
咲き乱す、桃の中より初桜……誰が言ったか忘れたが、そんな感じであったのだなあ。返す返す言おうか、素晴らしかった
透明こそが最も優れたる化粧である。そりゃあ、あんな立派なもんがこの世にあれば化粧なぞいらないかもしれないが、水のしたたりこそは唯一見合う化粧になろうさ。
左右に分かれた狭間に水滴が垂れていく様は、そりゃあもう。
眼福眼福。桃尻桃尻。
……で、だ。
お尻しか見えなかった状態が変化したわけだ。お尻の脇から、目を見開いたシスターの顔がこんにちはしたって訳さ。
いや、時間帯を考えればこんばんはか。どうでもいいね。
……嘘だ、まさか、と。
こんな事が有り得る筈がない、と。
そんな表情で彼女、こちらを見てくる訳だ。
いや、シスターのそんな表情を見たのも当然初めてだったからさ。思わず言ったね。
「初めまして、僕クリス」って。
そうしたら彼女、なんて返してきたと思う?
『――――――――ァッ!?』
ははは、正解は「分からない」だ。ごめんなさいね。
全然聞き取れなかったよ。
なにせあんまりにも高い声でね、なんかよく分かんない言葉で喚き散らすもんだからね。
いやはや全く、鼓膜が破れそうになったね。
顔を真っ赤にして、手当たり次第投げてくるのさ色んなもの。石けんだのタオルだの財布だのペンダントっぽいのだの。
錯乱してぶんぶん放り投げてくるから、そりゃ、見えるよ。前も。おっきいと、嘘みたいに揺れるんだね。女の人は大変だなあ。
何より……お尻を見た時から気づいちゃいたんだが、びっくりしたね。
だって彼女の股間には……。
おっとちょっと待ってほしい。
ナニが生えている、とか、そんな面白くもなくおぞましいような話じゃないんだ。
ただ、生えているべきものが生えていないと、そんな話でね……はは、下品かな、こりゃ失礼。
しかし、しかしだよ?
彼女の年齢といえば、僕よりちょっと上だと思っていたんだがね。
いやはやまったく、世の中には不思議な事もあるものだなあ……。
――僅か数秒でここまで思考が回転したのは、無論のこと、死に際の集中力って奴だったんだろうね。
いい右ストレートだったよ。お尻と、それだけは覚えてる。
鼻がもげたかと思った。
◇ ◇ ◇
既に夜も更けた頃。一人の盲目の少女が、延々同じ歌を歌っていた。
何度も何度も空気を震わせるその歌声は、次第に熱を帯びていく。
……彼女のそれは、聴衆のいない中ではいっそ勿体無く思えるほどの技量であった。
聖なる歌……神を讃える歌に込めるものとしては、信仰とはまた違った熱……困惑、不安、後悔……そういった種類のものが混じっているが、彼女は構うことなく歌い続け……喉の負担を考えてか、ようやくしばしの休息を取る様子であった。
――いつもの変なお兄さんと、いつもの世間話をして終わる……それだけのつもりだった。
ただ、もしかしたら……色んな事が私の身にとって分不相応な方向に進めば、彼と会えるのも明日が最後になる。
そこから生まれた私の焦燥感が、人に言うには……あんまりにも恥ずかしい、自分の夢だとか。
そんなものを口走る原因になってしまったのかもしれない。
だけど、彼なら、笑わないで聞いてくれるんじゃないかなって、そう思ったから。勇気を出して言ってみた。
私の耳の事を気持ち悪がらないでいてくれた、あの人なら。
……でも、言うべきじゃなかった。きっと、彼は、私の言葉でひどく傷ついたんだろう。
『……貴女は、神様を恨まなかったんですね』
いつも愉快な彼の、あんな声は聞いた事がなかった。
というよりは、あんな声を出す人間に、私は出会ったことがなかった。
私は、あの方を除いて、自分より耳の良い人に出会ったことがなかった。
この耳と、歌は、私の数少ない自慢だった。誰にどれだけ馬鹿にされても、自分が自分を好きでいられる縁だった。
……耳が良い私だから分かる。あの時のお兄さん、本当にひどい声だった。
まるで、人間の声じゃないみたいだった。
私は鈍いから、馬鹿だから、能天気だから。
目が見えないってだけじゃない。その所為で、私が人の気持ちに鈍感な所為で、だから私はいろんな人に嫌われてきたのに違いない。
今までは、目が見えない私に対して、何か一つでも劣っていることが許せないんだろうって勝手に人を見下してたけど、あの時の彼の声を聞いて、私は今まで勘違いしていた事、気が付いた事がある。
……傷つけようと思わなくっても、誰かを傷つける事もあるのだ。
ごめんなさいお兄さん。私、もうちょっと早く、その事に気付くべきだった。
『浮浪者みたいなのと、何をしているのよ』
……あの人は、私の歌を聞きに来てくれたもん、だったら私の大切なお客様よ、と。そう言い合って、今朝もぶつかった同室の娘。
彼女もここに来て長い。最初は私の事、心配してあれこれお世話をしてくれたのに。
……陰で多少、あの娘の面倒を見るのは大変だなんて、そんな言葉を聞いたからって……邪険にしはじめたのは、私からだった。
あの子が私に対して優しかったのは、間違いなかった事なのに。
……あの子は、ちょっとした愚痴を吐き出しただけに違いなかったのに。勝手に拗ねて、それまでの彼女の親切をなかった事にして。
突然態度が変わった私に対して、彼女は酷く困惑して……傷ついたに違いない。
私はどれだけ、自分の弱さを言い訳にして、いろんな人を傷つけてきたものだろう……。
イヤな奴だったんだ、私。
でも。
だからって。
……あれでお別れっていうのは、やだな。
彼は、彼自身が気に入っていたあの曲名を知っているのだろうか。
『慰めなる希望』……この街には相応しいとされている、ここの象徴ともいえる歌。
……私は彼を慰めるどころか、傷つけてしまったけれど。
もう一回、もう一回だけでいい。今度は、二人で最初から最後まで一緒に……。
そう思って、私は誰もいない礼拝堂で、もう一度あの歌を歌う。
「そこまでにしてください。それ以上は、喉を傷めますよ」
……集中していた私の意識を切り裂いたのは、私の耳をもすり抜けてこの場所に入り込んだ誰かの声。
「フラウト、しばらくぶりでした。遅くまでご苦労ですね」
「……ソプラノ、様……」
何か考えるより先に、彼女に向かって頭が下がる。それは、あまりにも自然な事だった。
彼女と話せることは、私の人生で最高の光栄であり、また、彼女の教えを受けられたのは、私の暗い人生に差し込んだ希望そのものであったから。
……こんな夜更けに、何故、と思うけれど。
私が誰より尊敬する、若くして使徒の第八位を冠する、正真正銘、世界最高峰の歌姫。
『御音』ソプラノ・プラム様が、私の前に現れたのだった。