Hopeless hope in Hope 3
――彼女を正面から見てすぐに分かったのは、見知らぬ人間が目の前にいるというのに閉じられたままの瞼……おそらく、盲目だという事。
もう一度、誰、と問いかける彼女に対して……ああ、申し訳ない事をしたなと反省しながら、出来る限り穏やかな声で話しかける。
「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんだ。ただ綺麗な歌声が聞こえたから、つい。僕の名前は……ええと、クリス・シュヴァルツヴァルト」
先に名乗れとは言いようがない。明らかに不審者は僕の方だ。
曲がりなりにも彼女はそれでも警戒を解かずに、こちらの方をじっと見ていた。
旅の巡礼者でして、と伝えると、ようやく彼女の可愛らしい顔の中心、寄せられた眉根の緊張が少し緩んだ。
ほ、という軽い吐息を感じて、ますます申し訳なくなってきた。
別に悪漢のつもりはないよ、と。そう伝えたくて、言葉を選びつつも口を開く。
「失礼な事をしまして、こりゃどうも……さっきのは聖歌って奴かい」
「ええ、だって、他に何がありますか」
「物知らずなもんで……育ちが悪くてね」
適当を言ってみたが、彼女はくすくすと笑ってくれた。
「変な人。世間じゃよく知られてるわ、あの曲。子供にだってわかるのに……巡礼者なんじゃないの?」
……その言葉ぶりには、内容以上に、少々の温かみがあった。
あっという間に敬語まで使われなくなる親しみっぷりだ。ありがたいね。へへん。
「ええ、ええ。そりゃもうね。迷える子羊のクリスと言ったら、世間じゃ評判の変人でござい」
「やだあ」
しまいにゃケラケラ笑い出した彼女の笑顔には屈託がなくって、初めの印象よりも幼く見えた。
まだ十四、五くらいの年頃だろう。
もっと疑われてもいいような気がするけれど……随分とまあ無邪気に笑うもんだ。
可愛らしいけどさ。僕にとっちゃ、彼女もまだ子供の範疇だ。子供は笑っている方がいい。
「私はフラウト。聖歌隊員、フラウト・パーカス。さ、子羊さん、こちらへどうぞ」
そんな言葉で誘われたのは、敷地内のベンチ。
そこまで誘導されて初めて、すぐそばに十字を掲げた建物がある事に気付いた。
そっか。
ここ、教会だったのか。
……聖歌が聞こえるのも納得だけど。それにしても彼女、ポンポンと隣に座るよう促してきているけど。
彼女の歩みに迷いは見られなかった。ウルスラで見たアレ、盲人が持っていた道先を探る杖も持ってないし……。
「……見えないんじゃないの? その目……」
「あれ、随分あっさり聞いてくるのね。デリカシーないなあ。普通の人なら躊躇するものだと……あれー?」
いっそ楽しそうに、こちらの言葉を笑いながら咎めたかと思えば、首を僅かに左右に振って、最後にもう一度、あれー、と大きく傾げた。
「……貴方、左腕、どこやったの?」
「随分気安く聞いてくるねえ、デリカシーないなあ」
「お互い様でしょ。ね、どうしたのそれ?」
「知らないっつうの。どっかやっちゃったよ。どこにやっちゃったかも覚えてないよ。もひとつおまけに、左目もないよ。カラスにでもつっつかれたのかもね」
「やだ、ウケる」
ウケるなよ。なんだこの子。ファンキーにもほどがあるだろ、清楚系の顔してさ。
最近の若者のハジけぶりについて行けず、思わず溜息をつく。
……無邪気というか、投げやりというか。
見知らぬ相手との距離の取り方が不自然だ。この子、話したがりなのに、話し相手がいないんじゃないか?
警戒を解くのが早すぎる……そんなお節介な、あるいは見当違いかもしれないこちらの内心を知ってか知らずか、彼女はふんふんと空に向かって鼻歌交じり。
……そういやなんで僕ここにいんだろ、と思いながらも話題を変えてみる。
「……今の季節、分かってるかい?真冬だよ今。寒かろうに、なんでまた外で歌ってたのさ」
「追い出されたのよ、あっこから」
そう言って、顎をしゃくって教会を指し示した。
「ははぁ……追い出されるってなんだい、なんか悪いことでもしたの?」
「する訳ないじゃない。目明きと違って、大した悪さなんか出来やしないわ、私」
「お昼のパンを盗んだとか」
「おかわりはしたけど。今日の糧をお恵みくださいましてありがとうございます、司祭様ってね」
「司祭から盗んだのかよ」
「年寄りは小食なくらいでいいのよ」
彼女は、何がおかしいものか一層楽しそうにケタケタ笑う。
「……司祭様はよくしてくださるわ。聖歌隊の同室の子と、ちょっと喧嘩しちゃってね。頭を冷やせって室長がさ」
「……聞いちゃっていいのかな」
「いいわよ、子羊さん。子羊に追い出された子羊に尋ねてごらんなさい?」
羊が鳴き合ってるだけじゃ建設的な話にはならない気がするけれど。
「喧嘩の原因は?」
「私が贔屓されてるって騒いだのよ、その子が。そっからは……もう、くだらない言い争い。でも室長も思うところがあったみたい……その子を味方してさ」
「贔屓って、誰に?」
「凄い方に」
「司祭さんより?」
「……こう言っちゃ失礼だけど、雲の上の方よ。本来なら私どころか、司祭様だって口を利くことも許されないくらい……なんで私、初対面の人にこんな事話しちゃってるんだろうね」
「ほんとだよ」
「あっは!」
……彼女は、たまらないと言わんばかりに、涙まで浮かべて笑った。
随分とまあ、良く笑う子だ、辛い境遇だろうに。
……そして、そんな相手と会話をしている巡礼者兼不審者。何だこの状況。
「貴方、やっぱり面白いわ。サーカスから逃げ出したピエロとかじゃないの? ほんとに巡礼者?」
「巡業者のつもりはないですよ。れっきとした巡礼者でさ、シスターに首輪つけられちゃいますがね」
「なあにそれ。やだあ、おっかしいの!」
君は君で「やだあ」ばっかりじゃないか。やなの。
口には出さなかった。どうせまた、楽し気な笑い声を聞かせてくれるに違いなかったから。
それはきっと愉快な響きだろうけど、彼女の内心を表しているものだとは、僕にはまだ確信が出来なかったから。
人の心なんて、目が見えないと分かり辛い。
目が見られれば、ある程度は分かるのに。
「あーあ……まあいいや、そろそろほとぼりも冷めたでしょ」
「ん、戻ります?」
「うん。お話ししてくれてありがと。ちょっとは気が晴れたわ……貴方、歳は幾つくらい? 私は十五なんだけど……お話ししてたらなんか、同じくらいな気がしてきたわ」
「年下じゃないかな」
「うっそだあ!」
当然見抜かれたが、実年齢を知らない自分としては是非を答えようがない。
いや、年上なのはほぼ間違いないだろうが、とりあえず若く見られる方が良いと昔誰かが言っていた気がする。
だけど、精神年齢が近いと言われるのもそれはそれで抵抗があった。
「……じゃ、またね。おじさん」
「おじさん……」
前も子供にそう言われたが、意外とこの言葉、聞くたびにショックを受ける。ウケる。
「……分かってる? 私、またねって言ったんだよ?」
「……ああ、成る程。『またね』、フラウトちゃん」
そう返せば、彼女は満足げにフンと鼻息一つ、踵を返して教会に向かっていった。
やっぱりその足取りはしっかりしていて、とても盲人の歩みには見えない。
「……あ」
……なんで杖も無しに歩けるのか。なんで僕が隻腕だと分かったのか。
結局分からないままだったけど。
教えてくれない理由には、勝手な想像ながら得心がいった。
……謎を残して、また来てもらうようにする、とか。
お子様の割に女をしていると。
そんな風に、僕は僕なりに失礼な妄想をしながら、失礼で人懐っこいフラウトちゃんの住まいであろう教会から離れていった。