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最後に立っていた者こそが勝者なのだ

 自身は酒に強い方だ。酒精を内腑に含んだ際には……酩酊感を楽しみこそすれ、それが次の日に残ったことなど生まれてこの方一度もない。


 ――男は髭をさすり、頭をさすり、顔を抑えた後にまた頭に手をやった。


 この世に生を受けて以来、宿ふつかいの感覚というものを、バッカス・ドランクスは味わったことがなかった。


 そんな男が、頭を抑えながら歩いている。この頭痛は、断じて昨夜からの酒が残っていたことによるものではない。

 これはただ、自分の理性が己の自制心の無さを嘆く悲鳴であることをバッカスは自覚していた。


 脳裏に浮かぶのは、昨晩の光景。

 ……酷いものだった。




 ――――――――――――――――




 自分の短慮を後悔したのは、最初の相手をしたときだ。


 腕相撲とは、すなわちお互いが同じ姿勢で机の上に腕を乗せ、手を握り合い、その甲を先にたたきつけた方が勝ちというもの。至極シンプルでありながら、かつその内実はディープ。腕力のみならず技術も要する奥の深い競技であることは間違いない。

 しかしむさいおっさんが(人の事など言えはしないが、その点は棚に上げておく)顔を突き付けてきて、汗ばんだ手でこちらのそれを握りこみ、かつ酒臭い息を吹きかけながら唸り声をあげる様を間近で見なければいけないのは控えめに言っても地獄である。


 とはいえ幾つになっても男は比べっこが好きなものだ。自分もその例外ではない。

 互いの準備が済み、審判を気取った我らが同類……すなわち酔っ払いが合図をすれば、たちまち己は勝利を得た。


 安酒もそのカタルシスによって美酒に変わり、二人目も三人目も、はたまた何のつもりか参加してきた酒場の店主すらも下した。

 勝利は常に気持ちの良いモノだ。結局己は、強さというものに誇りを感じる性質の人間であり、また強者との戦いをも喜びとする性質の単純な男であった。


 ……酔っ払いの押しの強さに押しのけられ押しのけられ、結局元々の飲み相手であった若白髪の物乞いが参戦してきたのは、酔漢達が残らず敗北の悔しさに呻き声をあげた後であった。


「ようよう、今さら来たか臆病者。生憎元気いっぱいだぜオレぁ、骨ぇ砕かれる覚悟があるならかかってきやがれ」

「……」


 口をとがらせて不貞腐れたその男、何を言うでもなく投げやりに対面の席に着けば、おもむろに右手を差し出してきた。


「気合い入れて来いよお前、雑魚すぎたらテメェ、ここの代金はもってやらねえからな」


 無理やり連れてきておいてのバッカスのこの言い草に、流石に男も思うところがあったのだろう。その表情は不満げだ。

 事実、このお遊びが始まった際には、知らぬことであっても使徒の一員たる男に対して『獲物』呼ばわりしていた。その直後には、血気盛んな者達の手によって後ろに流されていったが。


 しかし男は、この期に及んでこんな言葉を返してきた。


「……お手柔らかに願いますぅー。僕、こういうの苦手でしてぇー」


 ……軟弱もんが、気に入らねえ。バッカスはそう考えた。

 若いんだ、もうちっと覇気ってもんが必要だ。三十年も生きてないガキが、世を捨てるなんざこのオレが許すものか。


 流石に骨を折るまでやるつもりはないが、少し痛い目を見せてやろう……と、そう考え、バッカスは叫び疲れて辟易してきた審判役に目で合図した。


 ――握る物乞いの手には、全く力が入っている様子がない。


 開始の合図とともに叩き付けてやろう、そう思い、バッカスの上腕の筋肉が盛り上がった瞬間。


「ぐぅ……っ!?」


 予想外の感覚が突如襲いかかり、今にも剛力を開放しようとしていた腕から、それを奪い去った。


 ――脳が、バッカスに、これは『不快感』だという情報は与えてきた。


 しかしその出所が分からない。どこだ、何が。一体全体、何がどうして力が抜けた……?

 顔ではない、接触している腕ではない、腹でも……脚、でも……。


 ……足?


 あまりに突飛な異常感覚、それに対して消去法でその出所を見つけたときには、今にも己の手の甲が机に触れるか否か、その寸前。


「こな、くそがァッ!!」


 思考の刹那もなく、ただ己の体の命じるに任せて。

 机の下、視界に入らない中で異常の状態にあった右足を引き、改めて腕に無理くり力を籠めれば、ようやく両者の手が開始時点と同様に中央に戻ってくる。


 瞼から垂れてくる……目を焼くような水分の正体は、冷や汗。


 バッカスは、お遊びのはずのこの場で、何故あのような感覚を覚えたのかを知るため……一つ息をついて己の頭を冷静にした。


 ……先ほどのアレは単純な痛みではない。臓腑を握られたようなあの感覚。

 ……心当たりがあった。

 まさかと思いながら目線を端にやれば、物乞いが履いていたボロボロの靴、その片方が転がっていたのが見えた。


 確信した。先ほどの感覚の正体は……!


「うっそだろ……」


 そんな呟きが耳に入り、対面に目線を戻せば、心底驚いた様子の若白髪。

 呆然とした男を、歯を食いしばって下からバッカスは睨み付けた。しかしその口角は上がっている。


 仕切り直し、そして膠着。そこからお互い、相手の右手に机の味を教えて屈服させようとぎちぎちせめぎ合う中、バッカスから口を開いた。


「点穴、か……お前、やっぱり真っ当じゃねえな……!?」

「……そんな呼び方、知りません、でしたがね……!」


 未だに回復しきらない腕になお気合いを入れる。

 細い男の思った以上の大健闘に、酒場の連中が盛り上がる声。不快ではないその騒音が、先ほどの苦痛から解き放たれた今、ようやく耳に入ってきた。


 ――足の親指と人差し指の骨、その間の肉。

 一度意識すれば、未だにじんじんと疼く感覚によって、革靴の上からそこを……恐らく男の足指で抉られたらしいことが分かる。

 ただ痛みを与えるだけでなく、全身の自由を奪う急所……そこを見もせずに正確に突くのは、いっそ神業に近い。


 しかしバッカスは笑う。

 いくつか、嬉しいことを見つけた。


「ナメんなよこの野郎……このっ、このオレ様が、気安くやられてたまっかよ……!」

「だから、アンタは、どこのどいつだってのさ……!」


 ……本職の暗殺者であるなら、いくら酔っていようが殺人技術……言ってしまえば商売道具をこんな所で晒すはずもあるまい。

 この男は、そういう類の者ではなさそうだった。それがまず一つ、嬉しいこと。


「ぬおおおお……ほれほれ、どうしたい、このまんまなら潰しちまうぞ……!?」

「ざっけんな、この、ヒゲぇ……!」

「んぐぅおおお……!?」


 もう一つ、嬉しいこと。

 万全ではないものの、まさか人外の域に達している己の腕力に食い下がってくるほどの。この細腕で、よくぞまあ……!

 ……それ程の力があんなら。なんだお前、大丈夫さ、まだやっていけるさ、片腕なんぞなくったって……!


「うぅうぉ、っらぁ!」

「がああっ、ち、っくしょうクソジジイが……!」


 ダァン、と、バッカスは男の右腕を思い切り叩き付けた。


 心底悔しげにしている若白髪に対してバッカスは、その髭面を満面の笑みに変えて見下ろした。


 ――そう、なにより嬉しいのは。


 強い奴を、真正面から叩き潰せるこの快感を、久方ぶりに味わえたこと……!


 酒場の馬鹿共の歓声の中、バッカスは天に示すかのように思い切り、勝利を得たその右手を突き上げた。




 ……最高潮の盛り上がりを見せた酒場では、その流れのまま賭博が始まった。


 バッカスは、負けた。酷いザマで負けた。


 若白髪は、勝っていた。大層懐を温めて、こちらを指さして笑っていた。初めて見た時の、何も持っていないとでも言いたげな虚ろな表情など見る影もなく、笑っていた。


 それでもう使徒の第五位はムカついたから、そりゃもうめっちゃくちゃムカついたから、若白髪の飲み物に酒を混ぜて潰した。


 奴の勝ち分で、酒場の全員に奢った。


 いびきを上げていた、素寒貧に戻ったソイツは、酒場にそのまま捨て置いてきた。



 ……一晩あけてバッカスは、現在、少しだけ己の行いを反省している。

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