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送り、返す

 べちゃり。べちゃり。


 歩くごとに、耳障りな音がする。


 ……先日の雨で、ただでさえ湿っていただろう地面は最早沼のよう。

 足跡を付けていく度に、そこには水気がじんわりとしみ出していき、小さな水たまりを新たに作る。


「転ぶなよ、せ……」


 先を行くシスターに声を掛けられると同時に、とりわけ柔らかくなっていたところを踏んだ僕は、脚を取られて無様に倒れこんだ。


「……洗濯が大変だから」


 中途半端に切れた言葉を引き継いで、一瞬だけチラとこちらを見やった彼女は、そのまままた、僕が立ち上がるのを待つことなく森の奥へと進んでいった。


「……鈴を待たなくていいんですか」

「鳴らん鈴なら捨てた方がマシだ」


 今度は振り返る事もなかった。そう言い捨てて先に進む女性が歩くのに合わせて、長い金髪が僅かに左右に揺れる。

 ……この険しい森を散策するには全く相応しくない彼女の修道服には、不思議な事に泥ハネのシミの一つも見つけられない。

 軽やかに、まるで体重を忘れたかのようにスイスイこちらを無視して目的地に向かい続ける彼女に向かって恨みの舌打ちを一つ飛ばして、僕は手の平を泥まみれにしながら立ち上がった。


 ……ふと足元に視線を落とせば、彼女は木の根や大きな葉を踏むようにしていた事に気付く。

 成程、こうすればあんな風に、汚れずに済むのか。勉強になったね。


 そう思って、改めてのはじめの一歩を踏み出したものの、先ほどより足が軽く……軽すぎて、僕は自分の靴が先ほどの泥の中に囚われたままに気付いた。


「……へん」


 自分の中にわき出した苛立ちを自分で踏みにじってやる心意気で、僕は埋まった靴を左腕に嵌めこんだ棒切れにセットし、前進を開始した。

 見やれ、これこそ我が心意気。左に掲げる御旗は汚れを厭わぬ我が闘争心の象徴である。

 僕はこの世界を素足で歩き周り、じっとりした足跡を残すのだ。


 ……三歩ほどで諦めて、泥まみれの足を泥まみれの靴に押し込んで、せこせこと離れてしまった彼女の後を追う。


「目的地まであといかほどで?」

「小半刻」


 言葉少なに返す彼女からは、親愛とか、思いやりとか、そういった色は一切見受けられない。

 それなりに寝食を共にしているはずなのに、一向に仲良くしようという意思が感じられない彼女には流石の僕もうんざりし始めている。

 しかし今は、ぐっちゃにっちゃと不快な音を立てる靴の中の感触の方がもっとうんざりする。


 寒い日だ。だけど、耐えられないわけではない。

 割と温暖なこの地方では、年が最早明けたほどのこの時節でも凍えるほどの寒さは来ない。


 ……筈なのに、ふわ、と冷たい風が体を一撫でした途端、急に気温が落ちた。

 先程までは日差しがいくらかここまで届いていたが、いきなり暗くなった気がして空を見上げれてみれば――。


「雪だ」


 ひらひらと落ちてくるのは、白い雲の欠片も欠片。

 凍った水筋が僕には分からない規則性をもって寄り集まり、かたい氷の筈がこれほどに小さくこれほど密に集合した際は柔らかな感触を持ちうるのだと、それを不思議に思う。

 歩みを止めないままに上を向いて口を僅かに開けば、まるで望んで飛び込むかのように舌に舞い落ちる。


 ……目の端では、ひらひらと白。

 口の中には、ただ冷たさだけが広がり、息を吐けばやはり白む。


 暗い緑に遮られているこの森の中で、葉の間を縫って降りてくる氷粒は、僕の気に入るところだった。

 理由は分からない。敢えて言うなら、現実感を忘れられるからだろうか。

 何も分からぬまま、阿呆のように犬のように、未だに名前も教えてもらえない女の人に引っ張りまわされている現状が、僕にはやっぱり負担であるのかもしれない。


「……なんだ、そんなに珍しいものでもないだろう」

「二回目です」

「なに?」

「僕がこれを見たのは……雪を見たのは、まだ二回目です」


 少なくとも、覚えている限りは。


「…………」


 だけど彼女は返事もせず、それきり黙ったまま。


 年の開ける前。

「聖祭」と呼ばれる、サリア教の何かしらの行事の日にも、こんな風に雪が降っていた。

 まだ僕が彼女との精神的没交渉を理解できていなかった頃の話だ。


 ……つい先ほど、僕が態々「雪だ」と口に出したのは。

 僕自身確信はないけれど、今日より寒かったあの日の彼女が見せた、寂し気な、だけど懐かし気な表情がまた見られるかもしれないと思っての事じゃなかろうか。

 ちらりと(くだん)の人物の表情を盗み見ても、その様な感慨深げな顔つきは全く見せやせず、むしろ僕が隣に並んでいるのが不満だと言いたげに歩調を速めた。

 ……まあ、諦めやしないさ。仲良くなるための努力ってのは、どこまでいっても放棄しちゃいけない。

 なんにしても、仕事はきっちりやっとこう。使えない人間というのは、どこにいたって何をしたって鬱陶しい。

 せめて彼女が僕に求めている役割……遅れずについて行く事だけは全うしよう。


 それきり、僕も余計な体力を使わないよう、黙って彼女の後に続いていく。


 動き回るには難儀そうに見えるし、その癖防寒着としてはいまいちっぽい彼女の服装……というか体調が気になるが、「寒くない?」なんて聞いてもロクな返事が返ってこない事は容易に想像できる。足を引っ張っているのが僕自身である以上、休憩の催促と思われてしまうことすらあり得る。

 ……仲良くは、なりたいけれど。今僕が何を言ったって、結局不愉快な心証しか与えられないだろうから、やっぱり結局黙ったまんま。


 昨日のように雨ではなく、雪が降っている。それでもまだ耐えられないほどの寒さではない。

 先ほどまで水たまりだった筈の僕の足跡を振り返れば、まだ液体の体を保っているが、直に凍って白むだろうか。

 ……先行く道に、霜が降りているのが見えた。


 空から雪。呼気も白。地面に氷。

 今はまだ樹の色の面積のが余程大きいけれど、いずれ白いものばかりに囲まれるのを想像すると、どうも……落ち着かない。僕は、この色が嫌いだったんだろうか。

 ……そうかも。そうかな。どうだろ。


 しばらく無言の行進が続き、先頭を行く彼女の歩みがやや緩んだかと思えば、「着いた」との呟きが聞こえた。


 僕に言わせれば、先ほどまでの景色と何も変わりゃしない。

 だけど、彼女はこんな来た事もない森の中でも迷うことなくこうやって、薬草だのキノコだのの群生地を見つけ出しては、収集し、路銀に換える。

 地味に人間離れした嗅覚だ。いや、匂いで判別しているかは知らないけど。


 しばし仁王立ちしたままの彼女の指示に従って、片っぽの腕で採集。変に傷つけると値が落ちるというが、だったら両手が使えるそちらがどうぞと言いたい。

 言った。

 睨まれたので諦めた。僕は小心者である。

 自分がボンクラな事には薄々気づいちゃいたが、知りたくもなかったそんな事。


「これは?」

「毒キノコだ。食べると悪夢ばかり見る。運が悪ければ死ぬ」

「こっちの草は?」

「触るな。いや、触ってもいいが葉の裏に細かな棘がある。刺さると三月は熱をもち痛む。体が弱っていれば死ぬ」

「……この花は? 冬場に咲くなんて健気ですね」

「煎じて飲めばすぐに死ぬ」

「……じゃあ、どれがお目当てのものなんです?」

「君の後ろに生えてる奴だよ」

「最初から言ってくださいよ」

「ことごとく使い物にならない、それも毒持ちばかり選ぶからついね。逆にこちらは試されている気になったよ、まさかワザとやっているのかと」


 こんな時に限って、彼女はちょっとだけ楽し気な顔を見せるが、僕としては全く面白くない。

 ……最近気づいた事だけれど。

 採集をしていると少しだけ饒舌になる辺り、また足場の悪い中での、あの迷いも淀みもない歩きぶりを見る限り。

 やっぱり彼女は、どうにも森の中という環境が性に合っているらしい。

 なのになんでシスターなんかやってんのかね。口も悪いし。


 というか、彼女はいつもピリピリしているもんだから、いわゆるそういう職種の人が持つだろう優しさだの慈愛だの、そんな感が全くない。

 バッカスさんは、あの人はあの人でいかにも破戒している感じだから、サリア教団につとめているのはそういう人間ばっかなのか……?


 ……手を止めてぼんやりしていると爪先でお尻を小突かれるので、ぶつくさ言いながら作業を進める。



「……こんなもんでいかがでしょう」

「結構。じゃあ、先に行こうか」



 ……日課である薬草摘みを終えて、はてさて。今日はそれに加えて、一つある人達から依頼を受けている。


 彼女の地図も無しに迷うこともない、スイスイなる歩みに置いて行かれないよう、森の奥へと進んでいく。



 先程と同じほどの声量で、彼女は、今度は「いた」と呟いた。



 彼女の視線の先を追ってみると……まず目に入ったのは、脚。勿体ぶる必要もない、はっきり言うなら、人間の脚だ。

 一度気付いてしまえばこの森の中で見失いようもない違和感。

 近づいて行けば、そこには既に命を何かに奪われてしまった若い男性が、虚ろな目をこちらに向けて横たわっていた。


 仰向けに、大の字に倒れた彼の腹はぱくりと開き、中身は……見たくもないが、多分もう全部食べられている。

 ふいとシスターが指さす方向を見れば、樹に大きな爪痕が残されている。

 六条……大きな爪の痕。これだけで、僕にだって予想がついた。

 ……熊の片手には指が五本。こんな傷をつけよう筈もない。


「服装は……証言とも一致するな。コレで間違いないね」

「……魔物の仕業ですか」

「無論」



 魔物。

 人間だけを襲って生きる、理外の怪物達。

 子供が悪戯をしたように動物がごちゃまぜになったような姿とも、大きな毛玉に目口がついているとも、たとえようもなくおぞましいとも。

 偶に人を襲っては討伐される……ただし個体によっては到底人間じゃ勝てないようなのもいるらしい。


 色々話は耳にするものの、僕は生きたソレらを見たことがない。


 何故か。シスター曰く『鈴だから』。


 ……魔物が僕の近くに寄らない理由に心当たりがあるらしきシスターは、ただ、僕の事を熊避けのように『鈴』と表現し、それ以上の事は教えてくれない。



 ――何はともあれ、要は、街道沿いの村人が、病に伏せる父親の為に薬を取ってこようとして森に入り、帰らぬ人となった。そういう話だ。

 流石に一人で森に入る蛮勇は持ち合わせてはいなかったようだが、運良く逃げ延びた同行者は「唸り声が聞こえたかと思ったら、隣にいたソイツはビビって走り出した。俺はビビって立ち尽くした。暫くしてソイツが消えた方向から悲鳴が聞こえたから、逆方向……元来た方に走って逃げた」らしい。


 生き延びた方は、賢い。なんでって、生き延びたから。

 死んだ方は賢くない。

 結果が証明している。……彼のご両親は泣いていた。

 これから先、何を楽しみに生きろと。母親はそう言って泣いていた。

 もう長くないのに、俺なんかの為にと、父親は臥せったまま、嗚咽を漏らしていた。


 ……一昨日、偶々宿を求めたお家にそういった事情があった、それだけの話であったけれども。


 シスターは平素の顔つきで、ご両親と、責任を感じているらしい彼と同行した者からの依頼を受けた。

 僕に発言権はないによって、今日こうしてついて行くばかりであった。


 ……屍拾い。

 嫌な仕事だと、そう思ったけれど。


『お願いします。どうかお願いいたします。森で野晒しにしておくのは、あまりにも忍びなくて、可哀想で……』

『連れて帰ってきてください、どうか……。私どもの家に、どうかあの子を……』


 ……死んでいる者の為に、危険を省みず尽くせと。そう言われていることに違いはないけれど。

 僕らに向かって頭を下げた、僕らの目の前で死んでいる彼の母親の姿は、どうにも忘れられない。


 なんとなく、バッカスさんの真似をして十字を切ってみる。

 そうすると、ぞわぞわと感じていた死体に対する不快感は、少しだけ和らいだ。


「……そんじゃ、帰りのご案内をお願いします」

「……ふん?」


 何か言われる前に彼の死体を持ってきた防水性の布でくるみ、肩に担ぐ。どうせ担ぐ事になるなら、やれと言われる前にやった方が僕の精神衛生上良い。


 そうするとどこか驚いた様な、なのに不満げな様子でシスターは鼻を鳴らした。

 いくら片腕と言っても、こんくらいの力仕事なら目の前の細身の女性よりかはマシだろう。マシだと思いたい。


「……思ったより力持ちだよな、君」

「あら珍しい、お褒めの言葉?」

「いいや。見た目が頼りないというのをそう思えるなら、それは君の勝手だが」

「……じゃ、帰りましょっか。のんびり行きましょう、のんびり」


 ただでさえ歩きなれない道を、重たい荷物を担いで帰るのだ。置いて行かれたらイヤなのでそう言ってみるものの。


「暢気な事だ。まあ、君がいれば魔物に襲われる恐れもない。気楽だね」

「……だから、その理由を教えてくださいよ。確かに出くわしたこたぁありませんが、もし出会っちまったらお終いじゃないですか。どこぞの森のクマさんとは違うんでしょうが。落とすのはイヤリングじゃなくて命でしょうが」

「何をしている。先に行くよ」


 人の話を聞きゃあしねえんだ。この女。


 それにしても……可哀想になあ。こんなに冷たくなっちゃってさあ。

 担いでいる、名前も知らない誰かの死体のおくるみを一擦り。



 ああ……それにしても。魔物。魔物ね。嫌な生き物だよ全く。

 タチが悪いにも程がある。人間ばっか食うだなんてさ。


「……残すだなんて、贅沢な……」


「何か言ったか?」


「……? いえ、別に」


 いつの間にか、雪は止んでいた。



 ◇  ◇  ◇



 幸い、帰り際に何かしらのトラブルがあるでもなく、無事に僕らは森を抜けた。



 ――深く頭を下げる中年女性を尻目に……頭を深々下げさせたまま、早々にシスターは踵を返して先を行く。


 この人ときたら、『先を行く』ばっかりで、こっちはいつもせわしなくついて行く羽目になるのだ。

 悔しいから修道服から浮き上がったお尻のラインを睨みつつ、後を追って声を掛ける。


「ちょ……ちょっと、いくらなんでも失礼すぎやしませんか」

「捕まると長いぞ。どうせ聞かされるのはつまらん話だ、顛末が分かっているのに、何を聞く必要がある? 子が死に、親が泣いた。それだけだ……全く興味をそそられん」

「それが修道女シスターの言う事ですか」

「嘘をつくなと教義にあるから」


 とんでもないやっちゃ。こりゃあまっこと、とんだじゃじゃ馬だ。

 ……あんまりにも無情が過ぎる。人が身内を想う気持ちに対して、余りにも心無い。心が無い。

 僕には家族の記憶もないが、あればさぞ温かろう、心地よかろうと常々思っている。そういうのは大事にしていきたい。


 これは一つガツンと言っといてやらにゃいかん。

 そう思って、揶揄する感じで、嗜めるような心持ちでこう言った。


「貴女には……そういう人、いなかったんですか? 彼女らにとっての、息子さんみたいな」


 すると、


「いたさ」


 意外にも即答であった。


「そんなら彼女の気持ちも分かりましょうに。あんな、態々傷つけるような態度を取らなくても」

「自分を厭い、疎んじ、死を願い……毒まで盛った両親から守ってくれた。優しいひとだった」


 そう言って、フンと鼻を鳴らすと、軽く耳を撫でて歩き出す。


「……話のもっていきかた、間違えたか」


 こりゃあ、へそ曲げられたな。暫くは口も利いてくんないかも……そう思っていたのだけれど。


「君だって」

「はえ?」


 即座に予想が外れたもので、間抜けな音が口から漏れた。

 君だって、の後にどんな言葉が続くものだろうと身構えたが、珍しい事にシスターはいくらか逡巡した様子で。


 口を一度、二度。開けて閉めて、結局、さっきまで言おうとしていた事とは全然別であろう言葉を口に出した。


「……君が『鈴』だと知られれば、あの婦人も君の事を恨みに思う事だろうさ。その筋合いがなくとも、こう思うのさ。『何でお前だけそんなものを』『ソレさえあれば、あの子は死なずに済んだのに』……。いつの時代も、人間の浅薄さは変わらない」

「……むぅ」

「君が信じようが信じまいが、その『刻印』は無二なる効果を発揮する。神か悪魔か……どのみち性格の悪い何者かの痕跡が君に刻まれていることに違いはない。いずれにせよ、さっさと去るのが正解なのさ」

「……ぐむむ」


 結局僕は、ぐうだのむうだの唸っただけで彼女に何も言えぬまま、やはり阿呆のようについて行くのみだった。



 ――そんな風に言うのなら……だったらなんでこんな依頼なんか受けたのさ。しかも無料ロハで。



 ……シスターの事は、まだやっぱり分からない。少なくとも、聖職者というにはあまりにもつっけんどん、不愛想。あと尻がエロい。


 だけど、ただの嫌な人だとはどうにも思えない。単純に美人だから罵詈雑言を許せる、っていうだけでなく。

 ……嫌味ばかりを受けていながら、我ながら不思議なもんだった。

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