鈴
嫌な夢を見た。
そこでは、沢山の人々が思い思いに過ごしていた。
お城の様な立派なお屋敷のようで……事実、お城なのかもしれない。石造りの、ただ住むには大げさすぎる廊下の長さと広さ、天井の高さ、中庭もいくつか……庭園と言える規模のものもあって。
足元に敷かれた絨毯の毛足は長く、歩くたびに感じる柔らかさは非現実的なのに、まるで体験したことがあるかのよう。
これが夢だって分かっていても、自分はここで生活したことがあるかのよう。
場面は唐突に切り替わる。
立派な食堂があって、そこで幾人かが食事をしている。
談笑をしているような、和やかな雰囲気。なのに、声の一つも聞こえない。そこに居る人たちは楽し気に笑っている……そんな感じなのに、その事に確信が持てない。
……その理由は、分かっている。
また場面が変わる。
先程までと打って変わって、同じ石造りでも酷く武骨な、壁も床も裸のままの部屋。
寒さがしんと響くような、だけど妙に居心地が良くてなじむ部屋。ここには誰もいなかった。
……ああ、自分にはこう言う場所がお似合いで、そう、こここそが僕にとってふさわしい場所だと確信できるような。
だって目の前に張られた鉄格子は大層しっくりくるもので。
ぽつねんと敷かれた布団だけがその景色からは浮いていて――それじゃ、地べたの冷たさが遮れないだろうに――妙に間抜けに見えた。
また場面が変わる。今度は倉庫。
また変わる。今度はトイレ。
また変わる。今度は多分、門の前。
……別にこの施設かどこか、そんなに悪いものじゃない気がする。豪奢な感じと素朴な感じが同居して、懐かしさすら覚えた。
イヤなのは、そこに居る人たちだ。すれ違うたびすれ違うたび、誰かに肩を叩かれるたび、僕はその人たちの顔に目を向けては、眉をしかめたい思いを押し込めて、無表情を無理やり作ってその場を離れた。
また視界が切り替わる。
今度はどこだ……そう思って見回せば、立派な椅子が、高い階段の上に置かれているのが見えた。
そこに、誰かが座っていた。
その人が身に纏っているのは、白く輝くような、さぞかしお高い生地で仕立てられただろうドレス。ふわふわと風もないのに揺れているのは、何かその人から不思議な力でも溢れているのか、それとも、その人が震えてでもいるのか。
寂し気に、ぼんやりとした様子でそこにいるのが何故か分かった。その人の他には、ここには誰もいない。
先ほどの牢屋の様な部屋より、寒々しい場所だった。見えているからには光の入る所なんだろうに、階段と、椅子と、その人と、自分の足元くらいしか見えなくて、他は何故か真っ暗だった。
……やっぱりその人も、この場所にいる人たちと変わりはしない。
ドレスを着ているからにはきっと女性なんだろうその人も……首から上に何もない。ここの誰彼と同じく、首の上に何も乗っていない。
顔がないんだ。これがまた、えらく気持ち悪い。
他の人達と違って、人間臭い動きがない。無駄に動き回らないでいてくれるから、彼女に対する嫌悪感は少しだけ薄れた。
夢特有のぼんやりした感性が、自分の恐怖を押しとどめてくれているのもあるのだろうけど。
……ぱたり、ぱたりと。その人の背中から生えているらしい翼が時々、思い出したように開いたり閉じたりしている。僕はただ、それを、階段の下からぼんやりと眺めていた。
そんな夢。
……もしかしたら、長く付き合う事になるかもしれない悪夢。
きっと、夢の常として、朝には覚えていないんだろうけど。
――最後に、全てが透けていって、向こう側。
何か、書割のように完成していて、だけど作り物ではありえない生命力に溢れた情景。
……風が一陣。丘の上にちらちらと、雪のように舞い散る桃色の花弁。
春の訪れを象徴するもの。
生まれてから、初めて視界というものを獲得した時に、誰かの腕の中から見た、幻想的で優しい風景。
懐かしい、僕の生まれ育った――
「――さっさと起きなさい」
「……ん」
「これ以上惰眠を貪るようなら、今日はご飯抜きといこうか」
「起きます起きます今すぐに。ですのでどうか兵糧攻めばかりはご勘弁ください、シスター」
慌てて粗末なベッドから跳ね起きれば、そこには、寝起きには心臓に悪いほどの、酷薄な美貌。
一月ほど寝食を共にしている、年齢不詳の美人さんがこちらを覗き込んでいた。
……先だって『頭目』のお屋敷のあるフォルクス国ウルスラを発った後、同国を緩やかに東よりに北上し、我が恥の足跡を残しておりますのは、この僕、クリス――クリス・シュヴァルツヴァルトにございます。
バッカスさんから手引きを受けまして、ええ、見目麗しい女性との楽しい旅路となるものと予定しておりましたところ、先のやり取りで十分ご理解いただけましょうが。
我が案内人は、どうにも、初対面の第一声から今この時に至るまで変わることなく、大変厳しいお方でございました。
……いくらか、彼女とのこれまでに至る経緯をご説明する必要もありましょうが。
まずは、日課になってしまったお仕事を済ませる事に致します。
「今日はここから西の森だよ。ちゃんと着いてくること。鈴の役割は君にしかできないから」
「……そう仰っていただけるのは誠に光栄」
「目つきはそうは言っていないようだが」
「こればかりは生まれつきかと」
「そうか。気の毒にな」
「ええ全く。この間ケチを付けられたばかりです。失礼な幼児に」
かの謎子供、ヤヌスちゃんは僕の目付きをいやらしいと評したものだが。
「子供は正直だから。その卑しい目つきを咎められるのも宜なるかな」
……彼女は、僕の事を卑しい男だなんだと、常に卑しめる。
「……ほら、無駄話をしている余裕があるならさっさと着替えなさい。朝食を済ませたらすぐに出るとしよう」
「はあい」
ああ。
今日もまた、不可解な一日が始まる。