解放
『空っぽ?』
――恐ろしい女が、自分の前に立ち、口を開いた。
人間である以上は、そのように生まれたからには一目で分かる。
コイツは、毒だ。
『あなた、空っぽなの?』
『本当に?』
『……じゃあ、私のコレ、あなたの中に入れてもいい?』
『余りものなのよ。特別なんだけど……だからこそ、誰も欲しがらなかったもの』
『……よく聞こえるだけの耳は、他の子が持って行っちゃった』
『鋭敏な鼻も皮膚も、力持ちになれる秘蹟も、上手なかくれんぼのコツも、火傷によく利くお薬も、人に優しくしてもらえる秘密も、酔っ払いの宴会芸も、切れ味の悪い包丁も、出来のいい雷太鼓も……他にもいっぱいあったのだけれどね。もう、これしか残ってないの』
『よく見える目は……ないのよ、生憎。神様って盲目なの。知らなかった? ……悲しいものを見すぎたせいで目が潰れちゃったのかしら』
――女は、優し気に、笑みを浮かべてこちらに語り掛けてくる。
それだけの事が、ただ、どうしようもなく恐ろしかった。
瘧のように震える私を前に、女は続ける。
『これはね』
『呼ばれれば、聞こえる』
『求められれば、会える』
『ほんのちょっと、人より手が長くなる』
『ほんのちょっぴり、人より腕が多くなる』
『そんな、神様の残り滓』
『空っぽなあなたにあげる。……ほら』
――とても綺麗に見えたソレ。
目の前の存在の恐ろしさすら霞ませるほどに力強く輝くそれは、思わず……そう、本当に、考え無しに手を伸ばしてしまうくらいに美しくって。
だけど、触れた瞬間に後悔した。
コレは、目の前の女の人以上に恐ろしい。
コレを得るという事は、地獄と同じだ。
人間である以上、こんなものを持っていてはいけない。
私は叫んだ。
――いらない、こんなの!
『返品は受け付けてない。もう駄目よ。あなた、自分で手を伸ばしたじゃない。あなたは……あなたも、もう神様の尻尾なの』
『でも……そうね。それが恐ろしいって事に気付けるなら』
『あなたには才能がある』
『不幸になる才能がある』
『稀有なのよ、それ』
『人を幸せにする為には、自らの幸運を削り落として、その人にまぶしてあげなければならない』
『神ですらそう』
『人でなら尚更』
『……悪い事ばかりじゃないわ。何せあなたは……最も神に近しい者となったのだから。人間の王も、魔族の王も、あなたを害する事なんて出来ない』
『ただ、あなたがまだ……せめて心だけでも人間でいたいっていうなら』
『その方法を教えてあげる。その手段を与えてあげる。その代わり……』
『私に血を捧げなさい』
――そのようにした。
『……素直ねえ。可愛いこと』
――女は一瞬遠くを見やり、囁く。
『私のもとに来るものは誰も戻れはしない。命の道に帰りつくことは……』
――女は首を傾げ、囁く。
『一緒に来い。待ち伏せして、血を流してやろう……』
――女は首を振り、囁く。
『ならず者があなたを誘惑しても与しては……』
女は笑う。笑って言葉を紡ぐ。
『……いいわ、教えてあげる。あなたがあなたでいられる方法』
『その力を使い続けなさい。少なくとも、日に一度は』
『それは救いの手の、指の欠片。奇形となり、捻じれていて、初めの姿は見る影もなく』
『……その恐怖を傍に置き続ける限り……都合の良い奇跡なんてないって理解できる限り』
『あなたは、愚かで、か弱い人間でい続けることが出来る』
――弱き者の叫びに耳を閉ざせば、自分が呼び求める時が来ても、同じようにされる。
――だから、呼ばれれば行け。売女のように。そして終わりの声を聴け。
――断末魔が、いつかあなたを飼い馴らす。温もりを忘れるその日までに。
――父は愛する者を懲らしめられる。かわいい娘を懲らしめ……うふ、くふふふふ。
――嘘つきは泥棒の始まり。そして……嘘を言う唇は憎しみを隠している。
――つまり、そういうこと。
女は演技がかった仕草で、立て続けに呟く。
この女が疲れたような表情を見せたのは、後にも先にもこの時だけ。
全てかどうかは知らないが、とにかく、多くを諦めた顔だった。
『人も、人の作ったモノも、神様でなんていられない』
『お父様は、もういない』
『……ねえ。もう、昔の名前は使っちゃ駄目よ』
『こういったものに触れたものは、みんなそう。そういうものなのよ。昔の自分を捨てないとね』
『……ああ、そうそう』
『お願いが、一つだけ』
『あなたがその力で何をするかは勝手なんだけど……』
『一つだけ、お願いが』
『あなたがこれから行くべきところ……教団の中に、一人、いるのよ。私にとってと、あなたにとってと……みんなにとってのお邪魔虫が』
『だから……これはあくまで、ただのお願いでしかないのだけれど』
『チャイルド・チャップリン……あの老人を』
『信じるな』
『それだけよ』
『……じゃあ、さようなら』
『そして、はじめまして』
『 』
――彼女は、鏡に向かって今も言うのだ。
『私は罪人です。そして、私がそうあるように望んだのは、主よ、あなたです』
そこには、彼女の体質上……体質と言っていいものか分からないが、とにかく何も映ってはいない。
カイネは鏡に映らない。
吸血鬼だから、と彼女自身は笑って言っていた。
目に映らない誰かに向かって、今日もきっとカイネは笑いながら囁く。
彼女は、蘊蓄深そうな言葉を、投げやりに、楽し気に、小馬鹿にしたように口ずさむことがある。
……その中でも、私は今でも、彼女が零したある一節だけは忘れられない。
美しい言葉はもう出尽くした、だけど最も難解な言葉が残っている……と。
そんな、一瞬のためらいをわざとらしく見せた後に。
『愛はすべての罪を覆う』……らしいわ、と。
憎々し気に、それでも笑いながら、かつて彼女はそう言ったのだ。