aLice IN (uncer) wonDERlAnd 5
――今日も、与えられている僅かな仕事を終えた。
そして今日もまた、いつもの廊下をぼんやり歩く。
思い出すのは……やっぱりいつもどおり、彼の事。
あの子とは何度も手を繋いだけれど、あの子から握ってきてくれることは一度もなかった。
きっと、私に対してだけじゃない……他の人たちは気付いていたんだろうか。こちらから握ろうとしたときに、あの子の手が微かに震えることを。
少なくとも私に対しては……だけど、きっと、他の誰に対しても。
彼はいつも、どれだけふざけていても、薄皮一枚の怯えを残しながら私と接していた。手を握るときだけじゃなくて、体に触れるときには例外なく、まるでそういうルールであるかのように決してその癖は消えなかった。
気づいていたんだろうか、他の人は。
こちらを傷つけまいと。こちらが恐ろしいと。こちらが、呪わしいと。
皆は、彼のそんな中身に気付いていたのかな。
……私と手を繋いで城の中を歩いたとき、彼は、一度もこちらと目を合わせてはくれなかった。
こちらがちらりと覗き見ていたことを、あの子は気づいていたくせに。
そのくせ、私が視線を外すと、そうっと目だけをこっちに向けて。
可哀想な子だった。
きっと、私に同情されるのはあの子にとって許せない事だろうけど。
……元より彼は多分、いいえ、絶対に私を……私たちの事を許してはいない。
「…………」
私の足には、脛までを覆うお気に入りのブーツがはまっている。
特注のソレは動きやすさを損なわないし、なおかつ可愛らしいデザインだ。
アロマ様が誕生日に誂えてくれたものだから、思い入れも一入。
去年のがそのまま使えるのは、身長が全然伸びなかったから納得はいくけど釈然としない。
嬉しいのだか悲しいのだか。
……私には肉球がない。
それでも訓練により、石床の上でも静かに歩くことは出来る。靴を履いてても関係ない。
でもそんなものに意味はない。
彼は、あの人狼の――ガロン隊長の肉球の感触が好きだった。
私の体にはそれがない。同じ獣人でも、種によって体のつくりは違う。
彼女は人狼。模られた生物の要素が強く発現しているのは、戦闘に長けた獣人の特徴だ。
……模られた、と簡単に言うのが今の私。
彼女らは……まあ生まれつきの事だから当たり前ではあるのだろうが……きっと意識したことすらないのだろう。まあそれはいい。そんな事、どうでもいい。
もっと重要な事がある。私には、彼が好んだものがついていない。
ただそれが、悔しい。
あの子がガロン隊長の肉球に顔を押し付けて、彼女はそれに悪態をつきながらぶんぶんと尻尾を振っていたのを見た。
その頬が紅潮していたのに気付いて、私の背筋は酷く冷えた。
あの様子は忘れられない。忘れたくても、忘れられない。
羨ましかった。
妬ましかった。
……と。
「隊長が脱走したよ! 追っかけるぞ!」
「またぁ!? 傷が開くって言ってるのに……!」
せかせかと、薬箱を持って私の前を走っていくのは看護員だ。
少なくともこの冬が過ぎ、春を越えるまでは、人間から攻められる恐れは無いとの判断がなされている。
既に私は情報部の任を解かれているが、自分の知っていた範疇と照らし合わせても、その見解は妥当なものだと思う。
なんにせよ、この城を奪還する際に各部隊に配属されていた医療や衛生の知識を持つ人材は、皆が衛生部局の医療班に改めて組み込まれた。
彼ら彼女らは、城下町や私達が得たイスタの各地、リール・マールや……他で小競り合いを繰り返している地方に派遣されたり、より多くの者に教育したりで忙しそう。
……戦後だからこそ、こういった人材は、より一層の苦労が強いられている。
そんな彼女らが言った『隊長』というのは、彼女ら自身が所属している隊の長を指さない。
彼女らは命を預かる知識を持っているだけあって、理知的であり、理性的であり、脱走などと言う行為からは無縁だ。
彼女らが言う『隊長』というのは、……あんな慌てた様子で、心配げな語調でその呼称を用いる相手は決まっている。
城内でもとりわけ理知的でなく、しかしこの城を取り返すに当たって最も活躍し、最も勇敢であり、最も傷ついた人狼を指している。
ガロン・ヴァーミリオン。陛下の親衛隊……近衛隊を率いる、ディアボロの最強戦力の一人。
『召返の一週間』と、そしてこの城を取り返す際の最後の一戦で、合わせて二度。
最も手強かった敵……即ち使徒から味方を守り抜き、この度の勝利に貢献した英雄。
今、ガロン・ヴァーミリオン近衛隊長は、本来なら床に臥せっているべき時間の筈だ。
ここ最近、ようやく起き上がれるようにはなったが、それでも一日の大半はベッドの上で大人しくしているようにと言われている、筈。
そして彼女はその言いつけを守らない。
馬鹿なのだ。お馬鹿なのだ、あの脳みそ筋肉。皆に迷惑ばっかりかけて。
無思慮で、あまりに……どうしようもないほどにどうしようもない彼女は、アロマ様や治療師に、最早溜息と共に言われる「大人しくしているように」との言いつけを破り、歯を食いしばって未だに疼く痛みを噛み殺しながら陛下のもとに向かい、部屋の前で項垂れてから部屋に帰るのを日課にしている。
それでも誰も、彼女に強く言わない。誰も彼女を悪しざまには言わない。
自分達が今生きているのは、彼女が最も強い敵をずっと引き付けていたからだって分かっているから。
……最初は皆が止めようとしたが、今はもう誰も彼もが諦めている。
彼女ら看護員も、追いかけはするけど、容体が急変しない限りは隊長をベッドに引きずり戻そうとはしない。
ただ、その度に開く傷を治療するのは、彼女の世話をする者にとっては難儀そうだ。
……治療の手間は大した事ではないという。ただ、心労が募る、と。
彼女の気持ちが分かるだけに、いや、彼女が誰より陛下を大事に思っている事が分かるだけになおさら。
ガロン隊長はせっかちだ。彼女とて、その鋭敏な嗅覚で……匂いで分かっているだろうに。
陛下のお病気は、そんなに早く治るものではない。
……あるいは、ずっと治らないものかもしれない。
だけど彼女は、まるで自分の忠義を示す方法はそれしかないとでも言わんばかりに、血で廊下を汚さないように、包帯だけは欠かさずに、何度も陛下のお部屋に向かう。
伝えたい事があるんだと、伝え忘れた事があったんだと、そう言いたげな顔で。
彼女は何度も、何度でも陛下の部屋を隔てる扉に額を押し付けては蹲り、悲し気に、小さく呟く。
飼い犬が、主の墓の前で吠えるように。
「…………」
……陛下がいらっしゃる場所を彼女に教えたのは、私。
そこにガロン隊長が向かう事に対して、アロマ様に無理に押し留めぬよう話したのも、私。
だから誰も、もう彼女を強く制止する事が出来ない。
――人間は、折角手に入れたディアボロを、何故こうも簡単に手放してしまったのか。
――人間は、これまで決して攻め入られる事のなかったティアマリアを、何故こうも簡単に失ってしまったのか。
情報班の中で特に耳ざとい者も知らない。
アロマ様ですらも知らない。知っているのは私だけ。
私は今まで何も知らなかった。
けど今は、誰も知らない事を色々と知っている。そう、色々。
ただでさえ我々の勝ち目は薄い。陛下が力を失ってしまった事で、趨勢の天秤は傾いた。
私達魔族勢力は劣勢で、人間が優勢。そんな事、皆もう分かっている。
氷を踏んだら罅が入る、限界が来れば水底に落ちる。それはいつか。今か、明日か。
そんな恐怖を背負いながら、それでも私達は川の向こうに進むしかない。生きる道を探し続けるしかない。
だけど、隊長が居なければ、ただでさえ見通せない向こう岸への距離は倍になる。
……使徒がガロン隊長に与えた傷が、どういう性質であるのか。
どれほどの呪いを伴っているのか。それも私は知っている。
「……陛下の心配なんか、してる場合じゃないじゃんさ」
ガロン隊長は、このままでは治らない。私達の技術では、治せない。
彼女が受けた傷の治療手段は、敵のみが持っている事も知っている。
このまま隊長が無理を続ければ、死んでしまうだろうことも知っている。
彼女を失うのは、ディアボロにとって、いやアグスタ全体にとって大変な損失だ。
……だけどやっぱり、それでもいいと思っている。彼女の為にも、私の為にも。
……隊長の事、嫌いって訳じゃない。むしろずっと尊敬してた。
歳は近いけど、あたしなんかとは全然違うって。
男みたいに飾らない喋り方で、良家の出なのに気取ってなくて。最後の最後、いざって時には彼女しかいない、そんな風に頼られる人。だけどどこか、偶に見せる表情には儚さがあって……陛下に対しては、城の誰より健気で。彼女の生き方には、色気があった。
隊長は、強い人。
陛下を除けば誰より強いと、エレクトラ殿下でさえもそう言っていたらしい。
……凄い方だと、そう思っていた。
嫌いだなんて、そんな訳じゃなかった筈なのに。